かかって、自転車を押して歩いてゆくと、彼方に、日本服の着流しの男が佇んでいた。
その辺、全部焼け野原で、あたりに人影も稀だったが、苛烈な空襲下、日本服の着流しの人は如何にも珍しく、謂わば時勢を知らない流行外れなのである。変な男だなと思いながら、私は近寄って行った。長髪、長身、痩せてはいるが頑丈そうな体躯、その様子に見覚えがあった。楊先生だった。
楊先生は崖上に佇立して、眼前に展開してる焼跡を眺めていた。眺めながら夢想してる風だった。私が近づくのにも気づかなかった。
私は声をかけた。
彼は振り向いたが、なにか夢想から立ち戻るのに手間取るかのように、暫くはぼんやりした顔付で、それからゆるやかに微笑して、私へよりも自転車へ眼をやった。
「ほう、自転車で、どちらへ。」
「ただ、散歩ですよ。」
「散歩はいいですね。然し、自転車では不便でしょう。」
習いたての自転車の爽快さと便利さと楽しさとを、私は自慢しようとしたが、思い止まった。そんなことは通じそうもないものが、楊先生の態度のなかにあった。なんだか余りにゆったりとしているのである。
「あなたも、散歩ですか。」と私は尋ねた。
「散歩と言っていいでしょうか、まあ、焼け跡見物ですよ。この頃は、こうしてぶらりと出歩くのが楽しみになりました。」
私はその着流し姿を改めて眼に納めた。
彼は大きな笑顔をした。
「楽しみなどと言えば、怒られるでしょうか。」
「なに、構いませんよ。然し、どういうことが楽しいんです。」
「この大都市が、その衣服をぬぎすてて、さっぱりと裸になったようなのが、なんだか嬉しいんですよ。」
私達はいつしか歩きだしていた。彼の歩調はゆるやかだし、私は自転車を押しているので歩くともなく話にみがはいった。
彼の言うところによれば、今迄何の奇もない平凡な小さな人家が立並んでいたこの都市が、火に焼けて丸裸になり、謂わばその弊衣を脱ぎすてて、新鮮な大地が肌を現わしたのは、見る眼に一種の驚異を与えるのだそうである。この都市にこんな大地があることを、実感としてわれわれは忘れていた。しかもその大地には、さまぎまな記念物が刻印されている。決して処女地ではない。数多くの、庭木、池、石燈籠、築土……田園に山川の自然的風物があるように、ここには無数の人為的風物がある。それらの人為的風物が、真裸な新鮮な大地の肌に無数に刻みこまれ
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