見送りながら、楊先生は言うのだった。
「女中は、はじめ、私が薪割りをするのを好みませんでした。けれど、この頃ではすっかり馴れて、薪が無くなると、私に言ってくるようになりました。愉快ですよ。」
近所が空襲のために焼けて、瓦斯がとまってからのことらしいのである。
「更に空襲がはげしくなって、災害も大きくなったら、こんどは、水道もとまるようになるでしょう。町会からそのようなことも言ってきました。そうしたら、私は、水汲みもやろうと思いますよ。朝から夕方まで、水を汲む、薪を割る、竈の火を焚く、つまり、自分の家に下男奉公をするのです。そうすることによって、労働の味を覚えます。そればかりでなく、野菜も作ってみようと思っています。野菜畑にする場所を見廻っていますと、思わぬところに、今まで知らなかった草や木を発見します。そうすると、その草や木に愛着を覚えて、日当りのよい場所に移し植えてやりたくなります。そのようないろいろなことで、一日中、忙しく働かねばなりません。また、働くのが楽しみになります。」
私は彼の真面目な表情を見た。
「一種の道楽ですね。」
「そう、戦争中の健全な道楽かも知れません。いったい、高度な文明は、決して断水しない水道とか、決して停電しない電気とか、決してとまらない瓦斯とか、そういうものを主張しますが、やはりわれわれには、時々断水する水道や、時々停電する電気や、時々出なくなる瓦斯などの方が、なにか親しみがあって、いいようです。それはわれわれに、種々の健全なそして楽しい道楽を与えてくれる機縁となります。」
楊先生は自ら識らずして大きな皮肉をとばしていた。そして彼自身は至極真面目なのである。楽しそうでさえある。
私は何も言うことがなかった。薪割の邪魔をしないようにと、間もなく辞し去った。
その後、東京空襲はますます激化し、災害地域は拡大して、至る所が焼け野原となった。私の友人知人にも罷災者が続出した。この間私は、まあ焼け出されるまではと、度胸をきめて、時折、自転車を乗り廻すのを楽しみにした。そういう自転車散歩の或る朝、六月のこと、偶然、楊先生に出逢ったのである。
私の自転車は習いたてである。少しの坂道はもう駄目で、降りて歩くより外はない。崖上の小道なども危いので、四方を眺めるような風をして、自転車を押して歩くのである。
そういう崖上の小道に、その日、さし
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