林檎
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)微笑《ほほえ》んでる
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22]
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四月初旬の夜のことだった。汽車は北上川に沿って走っていた。その動揺と響きとに身を任せて、うとうとと居眠っていた私は、窓際にもたせた枕の空気の減ったせいか、妙に不安定な夢心地で、ぼんやりと薄眼を開いた。が、身を動かすのも大儀で、そのままじっとしていると、すぐ前の所に、淡い電燈の光を受けて、にこにこ微笑《ほほえ》んでる男の顔があった。おや、と思ってよく見ると、仙台で私が乗車した時から、其処に坐っていた男だった。たしかもう十二時も過ぎたこの夜更に、乗客は大抵うつらうつらとしてる中で、一人眠そうな顔もせず、腰掛の上に真直に坐って、にこにこ笑ってるのである。
変な奴だな、と私は思ったが、それと同時に、初めからそういう感じを受けたのを思い出した。仙台で私が乗込んできた時、前の腰掛には、その男と五十年配の男とが並んで坐っていたので、窓から荷物を取入れる時に私は、窓寄りのその男に向って、御免下さい、と挨拶をしたのだった。それが聞えたのか聞えないのか、男は棒のように真直に坐ったまま、返辞はおろか身動き一つしなかった。私は座席をととのえ、雑誌を少し続け読み、それからうとうとと眠ったのであるが、その間彼はじっと、棒のように坐ってたようだった。今もなお棒のように坐り続けながら、ただ独り笑いをしている。
私は斜め正面からそっと、彼の様子を窺った。夜気に冷えた窓硝子がぼーっと曇りを帯びるほど、車室内の空気は温まっているのに、彼は黒羅紗のマントに固く身を包んで、二人分の座席の真中に、棒のように真直に坐っていた。鼻が高く細面《ほそおもて》で、美男の部類にはいる相貌だったが、長い髪の毛の少し垂れかかってる額や、痩せた肉の薄い頬などは、皮膚に色艶がなくてだだ白かった。その皮膚の感じが眼にもあった。仄白い膜の――曇りのかかってる、凄くはないが気味の悪い眼付だった。彼はその眼付を斜め向うに据えて、物の匂を嚊ぐかのように小鼻をふくらませながら、にこにこと薄ら笑いをしていた。
その様子を見てるうちに、私は変な気持になって、今眼覚めたような風を装いながら、頭をもたげ身を起して、彼の視線の方向を辿ってみた。すると其処には、通路を挾んだ一つ後ろの座席に、腰掛の背にもたれて眠っている女の膝を枕にして、五六歳の少女が眠っていた。髪の毛の多い、頬のふっくらとした、一寸可愛い子供だった。
元来子供を余り好かない私は、期待外れの馬鹿馬鹿しい気持になったが、そのために眠気を取失ってしまって、仕方なしに煙草に火をつけた。すると男は、子供から眼を外らして、私の方をじっと眺めた。私が煙草を二吸いする間、まともに私を見続けた。私は少したじろいだ心地になったが、思い切って尋ねてみた。
「煙草の煙がお嫌ですか。」
「いいえ。」
口先だけでそう答えて、彼はやはり私から眼を外らさなかった。それに反撥するような気で、私はまた云ってみた。
「どちらまでいらっしゃるんですか。」
「小樽です。」
それでも彼はまだ私から眼を離さなかった。而もまるで木石《ぼくせき》をでも見るように、私の存在を無視した見方だった。私は嫌な気持になって横を向いたが、生憎それが先程の子供の方だった。そして私は暫く、子供の寝顔を睥みつけてやった。
「あなたは子供がお嫌いのようですね。」
ぎくりとして振向くと、男はやはりまじまじと私の方を見ていた。
「ええ、余り好きではありません。」と私は無遠慮に答えてやった。
「私はまた子供が大好きでしてね……。」
後を続けるのかと思って見返すと、彼はただにやにやと薄ら笑いを洩らした。その時私は、彼の薄い唇にしまりのないことを気付いた。そして、その弛んだ薄い唇と曇りとを帯びた眼付とから、変に心を乱された。
「そうですか。」
自分でも可笑しいほど時経て私は答えた。けれども彼は平気で、すぐ私の言葉に応じた。
「そうです。そのために郷里《くに》へ連れ戻されるんです。可笑しなことがあるものですよ。」
私はぼんやり彼の顔を見つめた。
「子供を余り可愛がるから、東京に居てはいけないんだそうです。」
そして彼はまたにやりと薄ら笑いをした。
私は呆気《あっけ》に取られて、一寸言葉も見付からなかった。然し彼は私を馬鹿にしているのでもなさそうだった。その眼付や口付や笑い方などは、何だか普通でなかったけれど、言葉の調子は落付いた真面目なものだった。私は少し好奇心を動かされた。夜汽車の退屈ざましに私を話相手に選んだのか、または何か他意あってのことなのか、何れだって構やしないと腹を据えて、彼の話相手になってやろうと思った。
「余り子供を可愛がるから東京に居てはいけないんですって……不思議な話ですね。」
「ええ、不思議です。」
それでも彼は、一向不思議でもなさそうに、またにやりと笑った。
「ではあなたには、お子さんがあるんですか。」
「一人ありました、ずっと昔に。」
「ずっと昔ですって!」
「ええ、昔のことです。今はありません。」
私はまた彼の顔を見つめずにはいられなかった。見たところまだ三十以下の年配なのに、ずっと昔に子供があったというのは、どう考えても可笑しかった。がそれよりも私が驚いたことには、彼の眼は急に曇りが晴れたようになって、底深い空洞《うつろ》を示してきた。そして薄い唇にはなおしまりがなくなってきた。その変化に私は何となくぞっとしながらも、強いて云ってみた。
「一体どうなんです、全体のお話は。」
「それが不思議でしてね……。」
彼の眼はまた曇りを帯びてきた。そして物に慴えたように、横手の方を見やった。通路を挾んだそこの腰掛には、仙台で彼と並んでいた五十年配の男が、上半身を横たえて眠っていた。それを見定めておいて、彼はまた私の方へ向き直った。
「実際不思議ですよ。聞いて下さいますか。」
彼は音をさして唾液《つばき》をのみ込んで、それから話し出した。
「私は東京の本郷の、根津権現の裏手に住んでいますが、あの根津様の中では、いつも大勢子供が遊んでいます。私は子供が大好きでしてね、子供達の遊ぶ所を見るのが、何よりの楽しみです。無邪気で、憎気がなくて、面白いものですよ。余り私が始終見ているものですから、しまいには向うから私になずいてきましてね、私のことを小父ちゃん小父ちゃんって云うんです。時々煎餅なんかを買ってやると、喜んで食べてくれますよ。手ぶらで行くと、小父ちゃん何か買っておくれようって、寄って来てねだるんです。あの辺には駄菓子屋がいくらもありますから、私は餅菓子だの、飴ん棒だの、面子《めんこ》だの、いろんな物を随分買ってやりましたよ。お蔭で貧乏しましたがね、子供のためだから苦にはなりません。だけど、子供に貧乏だってことを知られるのは、親としての恥さらしですね。小父ちゃんはこんな物を食べてるの、と云われた時には、私もつくづく赤面しました。」
彼は恥しそうに微笑まで浮べた。
「ああその子ですか、私の家へ遊びに来たんです。眼のまんまるいくるりとした、五つか六つの女の子です。夕方でしたが、私が家に帰りかけると、後からおとなしくついて来るものですから、私はもうすっかり嬉しくなって、家の中へ引入れました。子供は嬉しそうでしたよ。きょろきょろ室の中を見廻していましたが、やがて馴れてくると、机の抽斗《ひきだし》の中をかき廻したり、茶箪笥の中の物を持出したりして、おとなしく遊びました。ただ困ったのは、食事のことです。その頃私の家には女中がいなくなって、私一人きりだったものですから、昼間会社へ出かける時には、家を閉めてゆくことにしていました。そんなわけですから、晩飯の仕度は自分でしなければならなかったのです。所が子供を一人留守さして物を買いに出かけるのも、何だか物騒だという気がしまして、仕方なしに有り合せの物で間に合せることにしました。丁度海苔と沢庵とが残っていましたから、それを子供と二人で食べました。贅沢な子供で、お肴がほしいとか鶏卵《たまご》がほしいとか云うので、それをあやすのに弱りました。がまあ兎も角も食事を済まして、それから面白い話なんかしてやってるうちに、子供はもう眠くなったとみえて、妙に黙り込んで眼をしぱしぱさせます。私はすぐに布団を敷いてやりましたが、布団を敷いてるその最中に、子供はいきなりわっと泣き出しました。泣きながら、お母ちゃんの所へ行きたいと云うんです。私は小さな押入を開いて、その中の新らしい位牌をさしながら、お母ちゃんはあすこにいるから、お父ちゃんとおとなしくねんねするんだよ、としきりになだめすかしましたが、子供は頭を振って、猶ひどく泣き出すんです。しまいには表へ駈け出そうとします。私もあんなに弱ったことはありません。それでも子供はどうやら私の膝の上で、泣き寝入りに眠ってしまったものですから、私はそれを抱いて寝てやりました。あなたは子供の匂というものを御存じですか。」
彼はしまりのない薄い唇をなお弛めて、一人でにやにや笑い初めた。
「甘酸っぱいような妙な匂ですよ。牛乳の腐りかけたのがありますね、あんな風な匂です。でも子供によって多少違いますね。その甘酸っぱいのに、汗の匂を交えたのもあるし、黴の匂を交えたのもあるし、薄荷の匂を交えたのもあるし、レモンの匂を交えたのもあって、いろいろです。向うに寝てる子供なんか、屹度薄荷の匂の交ったやつですよ。」
彼は小鼻の横に皺を寄せて、うそうそと微笑んだ。
「それから子供の身体は、思ったよりも頑丈ですよ。まるまると肥っていても、妙に骨の節々ががっしりしているものです。ただ指の先と頬辺とだけは、餅のように柔かくつるつるしています。この骨の節々が太くて指先と頬辺とが柔かいほど、子供としての価値《ねうち》があるんです。骨組がひょろひょろしていて、頬がざらざらしてるのなんかは、全く駄目なんです。あなたはそう思いませんか。」
「そうかも知れません。」と、私はぼんやり答えた。「そして、その子供はどうしました。」
「その子供って……ああそうですか。翌朝帰してやりましたよ。私は保険会社に勤めているものですから、毎日出かけなくちゃなりません。子供を一人で一日留守さしとくわけにもゆきませんから、翌朝になると、根津様の中に連れていって、また今晩お出で、と云って放してやりますと、喜んで飛んで行きます。けれどもうそれからは、二度と姿を見せませんよ。変ですね。それでも私は平気です。他にいくらも子供はいますからね。時々私の家へ泊りに来てくれます。私はその時の用意に、絵本や玩具を沢山買っておきました。然し子供は正直な者ですね。それを私がいくら持たしてやろうとしても、朝になると妙にしりごみして、一つも持って行きません。また私の方でも、強いてそれをくれてやろうと思うような子は、まだ一人もありませんでした。いい子だと思っても、夜中になっていやに泣き出したり、どこか気に入らない点があったりして、本当に理想通りなのは、なかなかあるものじゃないんです。ただ一人、これならと思うのがありましたが、それには失敗してしまいました。
「根津様の中に遊んでる子供は、二つ三つの小さなのは別ですが、大抵誰もついてる者はいません。所が中に一人、七つばかりの子で、いつもぱっとした美しい着物をきて、新らしい真赤な足袋をはいて、房々とした髪の毛を少し縮らして、十五六の女中を連れてるのがいました。白目が青いほど澄み切って、小さな黒目でじいっと物を見る眼付が、何とも云えず可愛いいんです。私はその子に、何度も菓子やなんかをやろうとしましたが、どうしても受取ろうとしません。ついてる女中がまた気の利かない奴で、お嬢さまにそんな物を差上げると私が叱られます、とこう云うじゃありませんか。でも私は、一度はその子を家に
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