泊めようと思って、機会を狙っていました。おとなしいわりに胸幅の厚い所を見ると、屹度骨の節々がくるくると太いに違いありませんし、一度一寸突っついた所では、頬辺にみっちりみがはいって、その上もちゃもちゃっとした柔かさです。私はその子を一晩抱いて寝てやりたくなりました。するうちに、とうとう或る日の夕方、まだ薄日がさしていましたからそう遅くもなかったようですが、その子が一人で根津様の門の前に立って、鳩に餌をやってるのを見付けました。私は静に寄っていって、そっと肩に手をかけて、面白い物を見せてあげるからいらっしゃい、と云ってみました。子供はきょとんとして、私の顔を不思議そうに見上げました。で私はその手を取って、いい子ですねとか何とか云って、あやしながら歩き出そうとすると、ふいに大きな声で泣き出してしまったんです。私の方が喫驚しましたよ。その上すぐに、何処からかいつもの女中が馳け出してきて、何をなさるんです、とけたたましい声で私を叱りつけて、力一杯に突きのけたものです。私は本当に驚きましたが、その驚きが静まって、にこにこ笑っていますと、女中は子供を連れて、向うへ走っていってしまいました。それきり、その子は一度も根津様の中に姿を見せませんでした。実に残念なことをしました。」
彼は一寸眉根を寄せたが、またにこにこ笑い出した。
「でもあの子一人に限ったことはありません。またどんないい子が何処にいるかも知れませんからね。穢い着物をきていたって、立派な身体をしてるものもあるものです。私はなお時々、見当をつけては子供を家に引張り込みました。すぐに泣き出すので、そのまま帰してやったのもありますが、一晩おとなしく泊ってゆくのもありました。所が可笑しいんです。或る夕方、やはり一人の子を引張って来ようとすると、鳥打帽を被った眼付の悪い男が、横合から不意に飛び出してきて、私の手首をいやというほどねじ上げたんです。貴様だろう子供を誘拐するのは、とそう云うじゃありませんか。私は笑い出してやりました。こんなに子供を可愛がってる私が、子供を誘拐したんだそうです。馬鹿馬鹿しくてお話にもなりません。それでも私は否応なしに、警察まで引張ってゆかれました。物の道理の分りそうな分別くさい顔をしながら、其処の人達の云い草が可笑しいんです、それならばなぜ貴様は女の子ばかりを誘拐するのか、ですって。だって考えてごらんなさい、本当に子供だという感じのするのは、女の子に限るじゃありませんか。その上私の子供も、やはり女の子だったんです。」
彼はひょいと首を縮めて、私の眼にじっと見入ってきた。その瞳の据った曇った眼付に、私は何だかぎくりとしたが、さあらぬ体で尋ねかけた。
「そのあなたの子供はどうなったんですか。」
「死にましたよ。母親と殆んど一緒でした。私はその子を余りに可愛がらなかったようです。いや、子供は可愛かったんですが、母親がさほど可愛くなかったものですからね。東京の者で、私より三つも年上で、癇癪持ちでしてね、始終私をいじめてばかりいました。意気地なしだの、愚図だの、馬鹿だのと云って、頭ごなしにやっつけるんです。時には癇癪まぎれに、女にも敵わない弱虫ですかって、私をさんざん小突き廻すことさえあるんです。それなら初めっから、私と一緒にならなけりゃいいんですがね、私はその女のお影で、学校はしくじるし、身体は悪くするし、さんざんな目に逢いましたよ。それでも女は、私を大事にはしてくれたんですね。着物の着方から下駄のはき方から言葉附まで、一々教えてくれましたからね。私が保険会社に出るようになったのも、女が奔走してくれたからなんです。所が子供が出来ると、もう私なんかはそっちのけにして、一切構ってくれないんです。一日中飯を食わせないこともあるんです。私だって癪に障るじゃありませんか、痩我慢にも知らん顔をして、一度も子供を抱いてやったことさえありません。所が子供が三つの時、女は赤痢にかかって死にました。子供もやはり赤痢とか疫痢とかで、殆んど[#「殆んど」は底本では「殆んで」]同時に死にました。そうですね、去年の秋でしたよ。私は二人を一緒に、女の家の墓へ葬ってやりましたが、いいことをしたような気もしますし、残念なことをしたような気もします。然しまだ間に合います。火葬にしたのですから、子供の骨はいつでも取出せるんです。今だって取出せますよ。なかなか腐るものじゃないんでしょうから。ね、そうでしょう。」
彼は口を尖らせて、私の答えを待ち受けるもののようだった。私は云った。
「大丈夫ですとも。だって去年の秋のことでしょう。」
「ええ、去年の秋……そうです。それから私はずっと、子供のことばかり考えてきました。なぜもっと可愛がってやらなかったろうかと、そう思うとはっきり顔が見えてきます。始終にこにこ笑っていましたよ。死んだ時にも笑っていました。片方の目を細く開き口を開いて笑ってるものですから、それを閉じさせるのに骨が折れたくらいです。あの時は三つでしたが、四つ……五つ……六つ……と、だんだん可愛くなるばかりです。生きてたらもう私と一緒に、公園なんか散歩するでしょう。そろそろ学校へも上る頃ですね。屹度よく出来るに違いありませんよ、利口な子でしたからね。そしてだんだん綺麗になってゆくんです。母親は綺麗じゃありませんでしたが、不思議に子供は上品な立派な顔をしていました。がそれももう、ずっと昔のことです。どうかすると何もかもぼんやりして、忘れそうになることがあります。そんな時私は、堪らないほど淋しい陰欝な気持になります。然しまたすぐに諦めます。子供はいくらも世間にいますからね。いつでも何処にでも、あり余るほど沢山います。子供がこの世にいなくなることは決してありません、決してないんです。」
彼は一寸鹿爪らしい顔付になって、眼の曇りが薄らぎ底深い空洞を示しかけたが、それがまたふっと曇ってきて、口許ににやりと薄ら笑いを湛えた。
「子供は温かなものですよ。ほかほかとした何とも云えない温かさです。一寸他に類がありませんね。ごらんなさい。向うに母親の膝を枕に眠ってる子がいますでしょう。あの母親の膝なんか、ただ子供の頭がのっかってるだけで、炬燵にはいったのよりももっと気持よく、ぽかぽかと温ってるに違いありません。」
そして彼は、もう私のことなんかは打忘れたかのように、その母と子とから眼を離さずに、時間を置いてはにやにや薄ら笑いを洩らした。私は可なりの間彼の様子を見守っていたが、ついに待ちきれなくなって云い出した。
「それから、あなたはどうしましたか。」
「え?」
彼は向直って、不思議そうに私の顔を見た。
「警察に連れて行かれたというお話でしたが、それから……。」
「警察……ああそうですか。実に馬鹿馬鹿しい所ですよ。高い格子窓のある暗い室に押込まれましたがね、碌に食物も布団もくれないんです。そして、眼鏡越しに人をじろじろ見るくせに、いやに丁寧な言葉付をする、口髭のある男がやって来まして、私を明るい広い室に連れ出したのはいいんですが、一から百までの数を云ってみろとか、何年何月何日に幾日を加えれば何年何月何日になるかとか、まるで小学校の算術のようなことをやらせるんです。それからまだいろんなことを尋ねましたっけ。しまいには私の眼の玉をひっくり返したり、胸に革帯のようなものをあてて聴いてみたり、体操をさしたりしましたよ。それで私はすっかり悟ったんです。皆して私を狂人扱いにしてるんです。私は癪に障って、狂人じゃないんです、と大声に怒鳴ってやりました。そしてもう何を聞かれようと、一切知らん顔をして黙っていました。それからすぐに、小樽の叔父に引渡されました。どうしてそんなに早く叔父が、小樽から東京へ来たのか不思議です。叔父は私を叱ったりなだめたりして、小樽へ連れ帰ろうとするんです。余り子供を可愛がりすぎるから、東京にいてはいけないんだそうです。不思議な理屈じゃありませんか。私がそれに逆らおうとすると、一体あんな女に引っかかったのがそもそもの間違だ、とそんなことを云って叱るんです。かと思うとまた、小樽には可愛い子供が沢山いる、などとやさしいことを云うんです。私は笑ってやりましたよ。叔父までが私を狂人扱いにしてるんですからね。それでも今こうして、小樽へ連れ戻される所です。」
そして彼が横手の方の座席をじろりと見やったので、其処に寝てる連れの男が彼の叔父であることを、私は察し知った。
「ただ少し自分でも不思議なことがありますがね。」と彼はごく低い声で囁くように云い出した。
「人間がみんな棒杭のように見えることが、時々私にあるんです。その棒杭がふいに歩き出したり声を出したりするので、可笑しな気持になるんです。何かで私はこういうことを読むか聞くかしたことがあります。長い間監獄にはいってた男が、俄に放免されて世間に出ると、いきなり其処の立木に向って、何やかやと話しかけたそうです。その男には屹度、立木が人間に見えたのでしょう。所が私はその反対です。人間が棒杭に見えて仕方ないんです。やはり頭が少し変になってるのかも知れませんね。然し自分で自覚してる間は、決して真の狂人じゃないそうですが、本当でしょうかしら。」
「それはそうかも知れません。」と、私は答えた。
「そうですね、いや確かにそうです。所がまた不思議なことには、子供は決して棒杭には見えたことがありません。子供だけが生きてぴんぴんしています。子供はいいです。世界中で何もかも木偶《でく》の棒ですが、子供だけは生々と跳ね廻っています。にこにこっと笑う笑顔ったらありませんよ。私の子供もよく笑ってばかりいましたっけ。私がそれにつり込まれて、にこにこ笑い出すと、子供達の方から私になずいて、私の側に寄ってくるじゃありませんか。根津権現の中には、いつも大勢子供が遊んでいますよ。女の子も沢山います。私の家へよく泊りに来たものです。」
そして彼はまた、斜め向うの女の子を眺め初めた。
「そんなに子供がお好きでしたら、」と私は云ってみた、「一人拵えるか貰うかしたらいいじゃありませんか。」
然し彼はもう私の言葉に返辞もしなかった。子供の方を一心に眺めながら、時々変な独り笑いを洩らしている。私も仕方なしに黙り込んで、列車の響きに耳を貸したり、車室の中をぼんやり見廻したりした。向うの隅で一人すぱすぱ煙草を吹かしてる者を除いては、大抵皆いぎたなく居眠って、空気はどんよりと濁っていた。
だいぶたってから、彼が不意に飛び立ったので、私は喫驚して眼を見張った。彼の見つめてる方を見ると、向うの女の子が寝返りでもしたらしく、向う向きにつっ伏していて、母親が半ば眠りながら本能的な手付で、その背中を無心に軽く叩いていた。男はつっ立ったままその方を見ていたが、やがてがくりと座席に腰を下して、マントの襟に顎を埋め、両手を胸に組み、眼を閉じて、いつまでたっても動かなかった。私は長い間、その狂人とも常人とも分らない男を、陰鬱な気持で見守っていたが、変に不気味な圧迫を感じてきた。恐らく彼は、私や他の凡ての乗客を棒杭のように思って、そして自分も棒のようにじっと坐り込んだのであろう。
汽車はもうとくに盛岡を通過していた。隧道《トンネル》にさしかかると魔物のような音を立て、全速力で走っているらしかった。私は窓の硝子の曇りを指先で拭いて、外の景色を透し見たが、ただ暗澹とした夜だけで、何一つ眼にはいるものもなかった。私はまた空気枕に頭を押しあてたが、変に不安な気持に頭が冴えて、なかなか眠れそうになかった。前の腰掛の男は、眠ってるのか覚めてるのか、先程の通りの姿勢で、棒のようにじっと坐っていた。私はそれをまた長い間見守っていたが、眼に疲れを覚えてくると、ぐるりと横手へ向きを変えて、腰掛の背にもたせた枕へつっ伏した。そしていろんな幻を見たようだったが、いつしかうっとりと寝込んだらしい。
私が眼を覚した時には、もう白々と夜が明けていた。車室の中がざわめいているのに、喫驚して身を起すと、汽車は浅虫を出たばかりの所だった。もうじきに青森だなと思
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