微笑まで浮べた。
「ああその子ですか、私の家へ遊びに来たんです。眼のまんまるいくるりとした、五つか六つの女の子です。夕方でしたが、私が家に帰りかけると、後からおとなしくついて来るものですから、私はもうすっかり嬉しくなって、家の中へ引入れました。子供は嬉しそうでしたよ。きょろきょろ室の中を見廻していましたが、やがて馴れてくると、机の抽斗《ひきだし》の中をかき廻したり、茶箪笥の中の物を持出したりして、おとなしく遊びました。ただ困ったのは、食事のことです。その頃私の家には女中がいなくなって、私一人きりだったものですから、昼間会社へ出かける時には、家を閉めてゆくことにしていました。そんなわけですから、晩飯の仕度は自分でしなければならなかったのです。所が子供を一人留守さして物を買いに出かけるのも、何だか物騒だという気がしまして、仕方なしに有り合せの物で間に合せることにしました。丁度海苔と沢庵とが残っていましたから、それを子供と二人で食べました。贅沢な子供で、お肴がほしいとか鶏卵《たまご》がほしいとか云うので、それをあやすのに弱りました。がまあ兎も角も食事を済まして、それから面白い話なんかしてやってるうちに、子供はもう眠くなったとみえて、妙に黙り込んで眼をしぱしぱさせます。私はすぐに布団を敷いてやりましたが、布団を敷いてるその最中に、子供はいきなりわっと泣き出しました。泣きながら、お母ちゃんの所へ行きたいと云うんです。私は小さな押入を開いて、その中の新らしい位牌をさしながら、お母ちゃんはあすこにいるから、お父ちゃんとおとなしくねんねするんだよ、としきりになだめすかしましたが、子供は頭を振って、猶ひどく泣き出すんです。しまいには表へ駈け出そうとします。私もあんなに弱ったことはありません。それでも子供はどうやら私の膝の上で、泣き寝入りに眠ってしまったものですから、私はそれを抱いて寝てやりました。あなたは子供の匂というものを御存じですか。」
 彼はしまりのない薄い唇をなお弛めて、一人でにやにや笑い初めた。
「甘酸っぱいような妙な匂ですよ。牛乳の腐りかけたのがありますね、あんな風な匂です。でも子供によって多少違いますね。その甘酸っぱいのに、汗の匂を交えたのもあるし、黴の匂を交えたのもあるし、薄荷の匂を交えたのもあるし、レモンの匂を交えたのもあって、いろいろです。向うに寝てる子供なんか、
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