。然し彼はもう、私の存在も叔父の存在も、否子供の存在さえ、忘れはてたもののようだった。子供の方へ眼をやりもしなかった。叔父から何か云われても、ぼんやりした様子で黙っていた。私は叔父が手荷物を片付けてる間に、彼へ言葉をかけてみた。
「今朝ほどはお眠りになりましたか。」
 返辞がなかった。私はまた云った。
「すぐ連絡船で向うへ渡られるのですか。」
 その時彼は初めて返辞をした。然し「ええ」と答えたのか「いいえ」と答えたのか、私には聞き取れないほど低い声だったし、またどちらでもよいというほど気乗りのしない様子だった。私は張合がぬけて、もう何にも話しかけなかった。
 暫くすると、彼は俄に立上って、棚のバスケットから林檎を一つ取出した。そしてその真赤なやつを、皮のままかじり初めた。さくりさくりと歯切よくやってる様子を、私は横から見守ったが、病癖が進んできたら、子供の赤い頬辺をもそんな風にかじるかも知れない、などとふと考えて、彼を憐れむ気が起ると共に、一方では、羨望に似た憎々しい気も起った。そして煙草をやたらに吹かした。彼は林檎を半分ばかりかじると、それを足下に投げすてて、じっと棒のように坐ったまま、曇りのかかってる眼を空に据えた。そしていつまでも身動き一つしなかった。
 そのうちにも私は、下車の仕度をしなければならなかった。手提鞄の[#「手提鞄の」は底本では「手堤鞄の」]中に、初め通りうまく品物がはいらないので、何度もつめ直してるうちに、汽車は青森に着いた。一度に乗客が立上った。彼はまだじっと坐っていたが、手荷物を両手に提げた叔父に促されて、バスケットと帽子とを大事そうに抱えながら、叔父の先に立って降りていった。長い髪の毛を少し乱し、黒羅紗のマントを着けてる、その痩せた背の高い後ろ姿を、私は人込みの中に見送った。
 手荷物を窓から赤帽に渡してしまうと、私は急いで彼の後を追っかけた。然し騒々しい人込の中に、彼の行方を見失ってしまった。
 連絡船に乗ってからも、私はなお彼を探してみた。海の上で朝日の光の中で、も一度彼と話がしてみたかった。然し彼の姿は何処にも見えなかった。或は二等室の方にまぎれ込んでやすまいかと、その方をも探したが、彼もその叔父も見当らなかった。それから私は、あの母親と娘とをも探してみたが、それも見付からなかった。
 そして私は、変に気懸りな気持へ陥っていった。曇
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