って、下車の仕度に枕の空気を出しかけて、ふと気付いて眺めると、前の席の男は、やはり腰掛の真中に棒のように坐っていたが、頭を軽く動かしながら、如何にも嬉しそうな笑顔をにこにこさしていた。私はその笑顔を眺めて、軽い驚きを覚えた。夜分に電燈の光で見た彼の笑いには、何だか呆けた空洞な無気味さがあったけれど、それが、今は、夜明けの微光に輝らされたせいばかりではなく、如何にも晴れやかな輝きに充実してるようで、自《おの》ずと人の心を惹きつけるものを持っていた。それでもやはり、彼の眼には仄白い曇りがかかっており、彼の薄い唇にはだらけた弛みがあり、額や頬の皮膚は色艶の褪せただだ白さを示していた。そういう眼や口や頬に、どうしてそんな輝かしい笑いが浮べられるか、全く不思議なほどだった。而も私がなお驚いたことには、通路を挾んだ斜め向うの子供が、彼の正面の腰掛の――私が坐ってる腰掛の、先の所まで歩いてきて、其処のところに両手でつかまりながら、彼の笑顔ににこにこ応じてるのだった。二人はまるで友人同士のような風だった。それを子供の母親は、まだ若い束髪の婦人だったが、平気で向うから眺めていた。そこへ、彼の叔父らしい連れの男が、毛革の襟のついたマントを着て、横合から彼の席へ歩み寄って来て、彼と並んで半ば腰を下しながら、しきりに彼の袖を引張り初めた。彼はそれでも素知らぬ風で、やはり女の子に微笑みかけ、笑顔の恰好をごく僅かぴくりぴくりと変えながら、何やら相図をしてるらしかった。
それら一切の情景を見て、私は夜来の彼の話を思い起すと同時に、漠然とした不安を覚え初めた。彼と彼の叔父と娘と娘の母親と、その四人の間に、何か不吉な縺れが起りはすまいかと、しきりに気になり出した。そして私自身も、その縺れに巻き込まれそうな気がした。私は半ば腰を浮かせながら、やはりどうにもすることが出来なかった。
けれどそれは、ほんの僅かな間のことだった。その情景は突然不作法に破られた。娘が彼の笑顔につり込まれて、腰掛の端から一足踏み出すか出さないまに、彼の叔父は俄に立上って、二人の間に立塞がった。彼は笑顔をそのままぽかんとした顔付になったが、次の瞬間には、もう何等の感情もないらしい没表情な顔付で、首を縮こめてしまった。子供の方はいつのまにか元の席に戻って、母親へ何やら戯れかけていた。
私は彼のために、何となく気の毒な感じがした
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