旅人の言
豊島与志雄
はて知らぬ遠き旅に上った身は――
木影に憩うことをしないのだ。
春の日に恵まれた若き簇葉の間から、小さな光りの斑点が地に印して、私の視線を引きつけるであろう。見つめる眼が次第に濡んで来るだろう。遠い昔の彼方の景色が記憶に蘇って来るからだ。青々とした草や木や、清い流れや、物を芽ぐます黒い土地、私が生れた黒い土地、それが私の心を呼び戻すからだ。行く方の空が遠くなって、来し方の空が近くなるだろう。その夕映の空の下にやさしい子守の唄が響く。疲れた私に眠れ眠れと唄が響く。……遠い旅に上った身には、眠ることが罪悪なのだ。
故郷はいつまでも私の故郷であれ。そしていつまでも私のうちに在れ。私が大きくなればなるほど、故郷も大きく育ってゆくだろう。私の足跡はいつまでも私のものなのだ。然しかく云うのは今恐ろしいのだ。さらば私は、真に恐れを知るものの恐れを以て、暫らく黙って進むのだ。信じて真直に進むのだ。
はて知らぬ遠き旅に上った身は――
後ろをふり返り見ないのだ。
後ろの遠い森影に佇んで私を見送る父母の眼が、さめざめと泣いているだろう。私の姿が小さくなり、地平線の末に
次へ
全4ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング