た。保科が敏子を先にはいらせようとするのを、敏子は身を避けて、保科を先にはいらせ、ちょっと間を置いて、そっと扉を閉めました。そして敏子は、そのまま引き返して、立ち去りました。
四月の下旬は夢のように過ぎ去りました。
縁談の話が出ると、敏子は母へ言いました。
「だって、まだ五月五日になりませんもの。」
「どうして五月五日なんですか。」
「そうきめたこと、お母さまに言いましたでしょう。」
「いいえ、そんなこと聞きませんよ。」
母は怪訝な面持ちでありました。けれど母の方では、五月五日のお節句のことに、前々から気を配っていました。燃料は不足だけれど、せめて家の風呂をわかして、菖蒲湯をたてようとか、粽《ちまき》はだめだとしても、せめて柏餅だけは拵えたいとか、戦争もすんだこととて、古い武者人形を少し飾ってはどうだろうかなどと、夕食のつどいに話したりすることがありました。そのお節句と敏子の五月五日とが、どういう関係なのか、母にはさっぱり見当がつきませんでした。それも当然なことで、敏子にとっても、そんな関係などは何もありませんでした。
ただその日まで、敏子は何事も言いたがらず、誰にも逢いたが
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