るわ。」
「ええ、きっと来てね。」
 その会合は、四月二十日の午後三時頃からのことでした。けれど、自由な我儘な人たちばかりのことだから、予定よりだいぶ後れるだろうとのことでした。
 それまでの数日、敏子はなんとなく新らしい気持の日々を送りました。保科哲夫に逢ってみてどうするかという期待は、聊かも持ちませんでしたけれど、洋子から聞いたその団体の趣旨が、分らないなりにも心に触れるところがありました。過去のすべてを葬る、ただそれだけの言葉にも、なにか新らしい自由な空気が感ぜられました。雪のなか、ソリの上で、嘗て耳にしたあの言葉の幻影も、現実の保科哲夫に逢ってみたら、消え失せてしまうかも知れませんでした。
 その日になると、敏子は、軽快な茶色ウールのスーツを着、キッドの赤靴をはいて、楽しげに出かけました。
 車が後れて、会場には三時半すぎに着きました。まだ会合は初まっていませんでしたが、控え室や廊下に、賑かな群れがありました。若い人たちが多く、たいてい服装は粗末で、たいてい長髪を乱して、すべての眼が生々としていました。美しいと言うよりは寧ろ怪しげに光ってる眼でした。それらの眼のなかで、敏子は慴えた気持ちになりました。そして秋田洋子を探しましたが、なかなか見当りませんでした。
 敏子は当惑して、外に出ました。街路を一廻りして戻ってき、階段をゆっくり昇ってゆくと、洋子にばったり出逢いました。
 二人は頷きあいました。廊下の先端の人のいない所へ、洋子は敏子を引っぱってゆきました。
「保科さん、さきほどいらしてたわ。待ってらっしゃいよ、探してくるから。」
 そこに、敏子は長い間待たされました。それから、外に出て、街路にぼんやり佇んで待ちました。通行人を見るともなく眺めながら、心は遠い雪国へ舞い戻ってゆくような気持ちでした。
 長い時間のあと、洋子がやって来ました。
「こんな所にいたの。ずいぶん探したわ。だけど、こんどは保科さんの方がだめよ。どっかに消えちゃったって、仲間の人たちが仰言ってるわ。なんだか手違いが多くって、予定通りの行事にならないらしいの。それでも、みなさん、平気でいるから、おかしいわ。もう初まるところよ。会場へ行きましょうか。」
 敏子は気のない微笑を浮べて、動こうとしませんでした。
 洋子もぼんやりそこに居残りました。そして暫くたって、ふいに笑いだしました。
「まるで待ち伏せしてるようね。」
 そのあとで、洋子は駆けだしました。彼方から、二人の青年がやって来ました。洋子は振り向いて、敏子を手招きしました。敏子はゆっくりと、真直に歩いてゆきました。
 洋子はもう、二人の青年と話をしていました。その一人が保科哲夫であると、敏子にも分りました。
 無帽で、縮れた長髪、眼鏡の奥から、更に奥深い眼が光っていました。少しくだぶついたズボンに、きちっと引きしまった上衣で、背の高い痩せた体でした。その方へ、敏子は真直に歩いてゆきました。気怯れも気恥しさも感ぜず、ただ夢の中のような心地でした。
 保科哲夫は、左手を少しあげかけて、またそれを下し、立ち止って、敏子をじっと見ました。
「あなたが、あの時の中山さんですか。ちっとも変りませんね。いや、ずいぶん大きくなりましたね。」
 その時敏子は、彼が少し酔ってるのを見て取りました。
「よく来ましたね。あなたも会員におなりなさい。秋田さんが黙っているものだから、僕はあなたのことをちっとも知らなかった。さあ行きましょう。あとでゆっくりお話しましょう。愉快ですよ、僕たちの会は。作法だけを心得てる赤裸な野人、そういう人間ばかりの集りですよ。」
 洋子とも一人の青年とが先にたって歩き、敏子は保科と並んで歩きました。保科は振り向きました。
「兄さんも、御両親も、お丈夫ですか。」
「ええ、いっしょにおりますの。」と敏子は答えました。
「どこにお住居ですか。」
 敏子は所番地を言いました。保科は足を止め、手帳を取り出して、それを書きとめました。
「近日中にお伺いしましょう。」
 その時、敏子は自分でも識らずにでたらめを言いました。
「五月五日から先は、旅行に出かけるかも知れませんの。」
「え、どこへ行くんです。」
「まだはっきりしませんけれど、五月五日ときめていますの。」
 後になっても、敏子はどうしてそんなことを言ったのか自分で腑に落ちませんでした。ただ、その時も、後になっても、五月五日というのが前々から決定している期日だったような、へんな感じに囚えられていました。
 保科はじっと敏子の顔を見て、それからまた歩きだしました。ビルの入口で、彼はまたちょっと足を止めて、敏子を眺めました。敏子は保科の方を見ずに、眼を宙に据えていました。
 狭い階段を上って、会場の入口まで来ると、もう中では何か初まっていることが分りまし
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