平素は身装に無頓着なのにも拘らず、前日と同様粗末ながら服装をととのえて現われてきますと、一座はなにか期待の緊張のうちに、眼がさめたようになりました。
 朱文は[#「 朱文は」は底本では「朱文は」]ちょっと張幼明の方に会釈をして、それから張一滄の方へやって行きました。
「遅くなりました。」
 張一滄の方は、もう、一座の空気を顧慮する余裕もなかったようであります。いきなり朱文を片隅の席へ引張って行きました。
 そして、張一滄はそこの椅子にどっかり腰をおろして、酒杯を手にし、朱文はその前に恭しくつっ立ったまま、時々一滄の杯に酒を酌しながら、何をいわれても安らかな微笑を顔に湛えていたのであります。
「どうだった、うまくいったか。」と張一滄は尋ねました。
「一時間ばかり前に戻って参りました。」と朱文は別な返事をしました。
「なぜすぐに来なかったのか。」
「馬の匂いが身体についていましたから……。」
「なに、なに、馬の匂い……。」
「馬に乗っていきました。それで、馬の匂いをおとすため、身体をふき、服を着換えたのであります。」
 張一滄は驚いたらしく、眼と口を打開き、相手の顔を眺めましたが、突然、眉根に怒気を現わしました。
「お前は、一体、何処へ行ったんだ。」
「十里ほど彼方へ行きました。そして、どうやら、妥協の方法をつけてきました。」
「なに、あの盗賊どもとか。」
「左様です。」
「怪しからん。」
 張一滄は握り拳で机を叩いて、立上りましたが、またすぐ椅子にかけました。
「然し、俺がいいつけたことは、俺との約束は、あれはどうしたんだ。」
「何のお話でございますか。」
「なに、何をいうのだ。俺たちの苦力を、お前の青布の連中を、結束して立たせる、ということではなかったか。」
「それには武器がいります。然し武器は少しもありません。」
「たとい銃がなくても、刃物や鉄棒や石はある筈だ。」
「そのような物では役に立ちますまい。」
「身体でぶつかってゆくのだ。今になってお前は、何ということをいうんだ。あの連中はどうしてるんだ。」
「日頃の通りにさしておきました。匪賊どもがやって来ても、ただ素知らぬ風をしているようにいいつけておきました。」
「全然話が違う。お前は、この町を、盗賊どもに踏み荒させて、それでよいと思うのか。」
「さほど踏み荒しもしますまい。こちらではただ、わきを向いておればよろしいでしょう。」
「そして、俺の倉庫はどうなるのだ。俺の物貨はどうなるのだ。」
「まあ大丈夫のつもりであります。穀物の類と毛織物の類がおもなものですから……。」
「それだ。俺が買い込むつもりだったのは、鑵詰類と綿布類だった。それを、穀物と毛織物に切替えたのは、お前の仕業だな。」
「いえ、初めからそういう御註文だったのではございませんか。匪賊どもは、鑵詰は便利だから掠奪しますが、穀物は調理に手数がかかりますから、あまり沢山は持ち去りませんし、また、毛織物は本能的にきらって、綿布に執着するものだと、そういうお考えのように存じておりましたから、お考え通りに取計らいましたのです。」
「誰が考えたんだ。お前一人の考えだろう。俺が註文したのは、鑵詰類と綿布類で、外の品物ではないんだ。それが、倉庫の中には何がつまっているんだ。」
 それらの対話の模様では、すべてが矛盾してるようでした。買入れ品目が全く違っているし、匪賊への対策も全く違っていました。その違いはどうやら、朱文が独断で勝手に取計ったもののようでありました。
 張一滄がいきり立てば立つほど、朱文は落着き払って、微笑のうちに逆な返事ばかりしましたので、張一滄はもう我を取失うほどになり、憤り且つ歎きました。
「お前がそういう男だとは、俺は今日まで知らなかった。俺のところに来て七年間、七回の夏や冬は、決して短くはない。その間お前は、随分働いてくれたし、一度も俺のいいつけに背いたことはなかった。それが今度に限って、危急存亡の瀬戸際に臨んで、俺の言葉を全く無視するどころか、悉く反対なことばかり仕出来してしまった。お前は卑怯者だ、裏切り者だ、馬鹿者だ。俺は娘の幼明に対しても恥しい。婚期を延して、独りでおいたのも、お前に見所があるので、もしこの眼に間違いがなかったら、お前にめあわしてもよいと考えていたからだ。その幼明の誕生の祝いに、おう、俺の眼は開けた。もうお前のような男は、家に置いておけない。町の遊女のところへでも、行ってしまえ。匪賊の仲間にでも、はいってしまえ。出て行け。」
 張一滄がいきりたって怒鳴りつけ、上唇の髭に鼻汁を垂らしかけてるのを、朱文は静かにうち眺めながら、やはり恭しくつっ立ったまま、微笑の影さえ頬に浮べていました。それが更に癇にさわってか、張一滄は飛び上りました。
「出て行け。出て行かないか。」
 張一滄は朱文の胸を
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