突きとばそうとしましたが、相手の平静さに気圧されたようで、ちょっとたじろいだのが、更に憤激を破裂さして、拳を振上げるなり、朱文の頬を殴りつけ、続けざまにまた二三回殴りつけました。
 朱文は少しぐらつきましたが、微笑の影のすーっと消えた緊張した顔付で、恭しく頭をさげて、そして平静な足取りで室から出て行きました。
 一座の人々も手の出しようがなく、咄嗟の出来事を見て駆け寄りましたが、それらの人々の腕の中に、張一滄はぐったりと倒れかけました。

 匪賊の襲来は急速でありました。その翌日の夕闇迫る頃、百五十名ばかりの武装隊が町を占領しました。というよりも寧ろ、町に案内されて屯ろしました。
 町の人たちは皆、家屋の奥に逃げこみ、閉じ籠っていましたが、多数の逞ましい苦力たちが、宛も友人をでも迎えるような調子で、にこにこした態度で町中をうろついていましたので、これには匪賊の方で勝手が違って、急に和らいだ気勢になってしまいました。朱文と賊の首領との間に、何か連絡があったのだとも、一説では伝えられています。
 そうして、匪賊たちは苦力たちに話しかけ、苦力たちの方でも匪賊たちに話しかけました。
 そして河岸の広場に、互にまじり合って集り、火が焚かれ、豚や鶏が灸られ、酒甕の口が開かれ、賑かな夜宴が、寒夜野天の下で始まりました。苦力たちがみな、腕に小さな青布をつけているのが、何か底気味悪い感じを匪賊たちに与えたようでもありました。彼等はいわるるままに導かれて、町家には殆んど乱暴をせずに終りました。夜遅く、その夜宴を垣間見に、起き出してきた町人さえありました。
 とはいえ、この事件は、町にとっては何よりも大きな衝撃だったのであります。町中がその一夜、眠りもせず戸を閉めきって、息をひそめていました。
 そしてまだ未明の頃、河の面がほんのりと白んできますと、匪賊たちを満載した数隻の荷船が、苦力たちに漕がれて、揚子江を対岸の荒蕪地へと渡りました。一隻の船には、酒甕や綿布類や鑵詰類や若干の金銭が積まれていました。
 それらの荷船が、空になって戻って来ます頃には、夜はもう明け放れて、町人たちは河岸に駆け出し、漕ぎ手の苦力たちを歓呼して迎えました。
 匪賊たちが進路を対岸へ取ったのも、討伐隊の待伏せを恐れた故もありましょうが、朱文の意見に従ったからだという説もあります。
 斯くして、町は僅かな被害だけで難を免れました。
 ただ、茲に特記しておきたい一事は、張家の倉庫の前に、二名の武装匪賊の死体が横たわっていたことであります。鋭利な刃物で顔面や胸部を抉られて、血に染んで倒れていました。そしてその銃と弾薬だけは誰かに奪われて、どこにも見出されませんでした。死体はすぐさま、ひそかに町外れの野原に埋められてしまいましたが、そのことがいつしか町人たちの間に拡まって、奇怪な印象を与えることになりました。
 それはとにかく、町にとっての大事件は、朱文を遙か高いところへ持上げ、彼に英雄めいた風格を与えることとなりました。彼の姿を探し求める眼差が、町の至る所に光っていました。
 朱文はそれを避けてか、青布の苦力たちをねぎらってから、張家の小房に閉じ籠っていましたが、その日の夜、ひそかに外出の仕度をしたところを、張一滄につかまりました。
 張一滄はひどく面窶れがして、その肥え太った身体は、骨ぬきのぶよぶよの肉ばかりのようでありました。上唇の髭がしょんぼりと垂れて、頬のへんにぴくぴくした震えが見えていました。
 彼は朱文の小房の外に、だいぶ長い間佇んでいたらしく、朱文が外に踏み出すや否や、ひどく慌てて、眼をしばたたき、一足あとに退り、そのままそこに跪かんばかりの様子で、急に両手を差出しました。
「おう朱文、待ってくれ、待ってくれ。何処にも行かないでくれ。」
 朱文はいつもの通りの冷静な態度で、恭しくお辞儀をしました。
「あなたにお目にかかりたいと思っておりました。」
「ああそうか、それはよかった。私もお前に逢いたいと思ったが、何しろあの騒ぎで、それに……とんでもない思い違いをしたり……なあ勘弁してくれや。」
 朱文は彼の手を執って、そこの横手の腰掛に彼を坐らせ、自分は慇懃にその前に直立しました。
「なあ朱文、もう何にもいわないでくれ。」と張一滄は息をついていいました。「みな私の思い違いだった。お前の考えが正しかった。お蔭で町中が助かったよ。」
「私はただおいいつけ通りにしたつもりでございますが……。」
「いいつけ……いやいや、もういわないでくれ。まったく……お前は偉い男だ。私の眼に狂いはなかった。町でも大変な評判だ。何でも望み通りのことをしてあげよう。町を救った神さまも同様だからな。娘の幼明もあげよう。何でもあげよう。望み通りのことをしてあげるよ。」
「本当でございますか。」
「ああ、
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