誓って本当だ。」
「それでは、私に一つ望みのものがございます。お嬢さんなどは、私の妻には勿体ないから、お断り致しますが、あの……楠を、私に下さいませんでしょうか。」
「え、楠、珍らしい望みものだの。よいとも、お前が蓑虫を退治てくれたあの楠、あげるとも。だが、何にするんだね。」
「ただお貰い申しておけば、それでよろしいのです。あの楠が元気に茂ってる限りは、永久に私の思い出になります。」
「永久に……思い出に……。」
 その言葉にひっかかって、張一滄が考えこんでいますひまに、朱文は急に頭を下げて、ちょっと外出の急用があるのでまた後刻に……といいすて、身を飜えして出かけてしまいました。
 張一滄はそこに暫くぼんやりしていました。すると、幼明が駆けてきて、今そこで朱文に逢ったが、いつになく大変取急いでる様子だったと、眼をまるくしていました。
「お互に心に傷を受けないでよかった…… 楠のことをお頼みします……とそうあの人はいいましたが、何のことか私にはよく分りませんわ。」
 張一滄はその朱文の言葉を幼明に繰返さして、じっと考えこみましてから、急に騒ぎだしました。朱文は何処かへ行ってしまうのかも知れない、早く引止めなければいけないと、召使たちを四方へ走らせました。
 けれども、朱文の行方をつきとめることは出来ませんでした。彼が愛してるとかいう妓女の家へも尋ねさせましたが、彼もその女もいませんとのことでした。夜遅くなって、召使たちはすごすごと四方から戻ってきました。
 実は、その頃、朱文はその愛する妓女の彩紅の奥室で、一切の人を避けて、酒を飲んでいました。
 彩紅は二十三歳の、体躯も肉附も豊かな、明朗な美人で、一点、清澄な瞳の奥に深い悲しみを宿したようなところが、時あって仄見えるのでありました。今夜はどういうのか、その一点の悲しみが、刷毛ではいたように拡がって、彼女を淡く包んでるようでした。彼女は空色の服をまとって、長椅子の上に、朱文の腕によりかかっていました。
 室の片隅の衣裳箪笥の前の小卓には、脱ぎすてられたままのものらしく、雲竜の華麗な刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]のある衣裳や、艶やかな銀狐の毛皮の襟巻や、その他の絹類が投げ出されていました。そしてその箪笥の横に、二挺の銃が立てかけてあるのが、異様に目立っていました。
 二人の前の卓上には、いろいろな色の紙を貼りつめた硝子の瓶や、くすんだ色の陶器の瓶などが並んでいて、グラスが四つほど、とろりとした緑色の液や透明の液を、一杯湛えていました。
 彩紅はそのグラスの一つを一息に飲み干して、いいました。
「いつ、お発ちになるの。」
「さあ、いつでもいいが……。」と朱文は言葉を濁しました。
「でも、夜ね。」
「なぜ。」
「あれがあるから。」と彩紅は二挺の銃の方を視線で指しました。
 その時、朱文はふいに彩紅の方へ振向いて、じっとその顔を見ながらいいました。
「どう、も一度考えなおして見ないかい。」
「なにをなの。」
「僕と一緒に行ってしまうということだよ。」
「だめ。此処でならいいけれど、どうせ私は、あなたの邪魔になるばかりだこと、はっきり分ってるわ。此処で…… もう五年にもなるのね。あたし、五年の間に、一生を生きてしまったと思えば、それでいいの。」
「然し、僕が発ってしまった後は、どうするつもりだい。」
「どうするって、もう一生を生きてしまったんですもの。」
「だってまだ君は……。」
「もう生きてしまったの。」
 ぽつりといって、彩紅は朱文の胸に顔を埋めました。
 朱文はじっと宙に視線を据えていましたが、ふいに、その顔から血の気が引いて、崇高ともいえるほどの蒼ざめた顔になりました。
 彼は静かにいいました。
「僕は、どうあっても、君を連れて行くよ。」
 彩紅は黙っていました。
「君はさっき、僕が此処から出発するのは、張幼明さんをもてあましたか、あの楠がもう嫌になったか、どちらかだろうといったね。だが、僕自身にもよく分らなかったが、そうではないんだ。張幼明さんのことは、父親の意向がどうであろうと、僕たち当人同志の間が、なんでもないのだから、問題にはならない。ただ楠のことは、本当に僕の心にかかるものなんだが、あれが嫌いになったんではないよ。ただなんとなく、あれを持てあますような気持になってきただけだ。あの大きい樹を見ていると、胸に抱いていると、こちらが、自由に身動きできないような気持になってくる。あれを張一滄さんから今日貰い受けてしまったのも、打捨てようとどうしようとこちらの勝手だと、まあ自分に自由がほしかったんだね。考えてみると、僕はまだ弱かった。ところが、君は楠とは違うんだ。君なら、生涯荷って歩いても、胸に抱いて歩いても、大丈夫だとの自信がもてる。僕にはそれくらいの力はあるよ。だから、ど
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