やにや笑っているだけでした。
 なお、伝えるところによりますと、彼は相当な収入があった筈ですが、いつも金はあまり持っていなかったそうであります。何に金を使ったかというと、酒と女の衣裳にだということです。その港町にもやはりちょっとした遊里がありまして、そこに彼の愛する妓女があり、彼はその女を、蘇州の刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]物や日本の刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]物や北京の毛皮などで、人形のように装わせたがっていたそうであります。また、支那ばかりでなく世界各地のさまざまな高価な酒瓶を、彼女の室に並べるのを彼は無上の楽しみとしていたそうであります。但しその真偽のほどは定かでありません。
 さて、事もなく年月は流れて、朱文がこの町にきてから七年目の晩冬初春のことでありました。何かしら険悪な空気のなかに、さまざまな風説が伝わって来、それが次第にはっきりした形を取ってきました――。或は反政府軍ともいい、或は暴徒ともいい、或は流賊ともいいますが、とにかく完全に武装した強力な一隊の軍勢が、村々町々を魔風の如く席捲しつつ、今明日にもこの町に迫って来るとのことでありました。そのためかどうか、港に来る筈の船も姿を見せず、長江の流れも荒ら立って見え、町中の人々が戦々兢々たる有様でありました。
 その不安なさなかで、張家では、ささやかな小人数ながら、豪奢な宴席が張られました。張一滄の一人娘の幼明の誕生日を祝うためでありました。
 張一滄に自慢のものが三つありました。一つは、前に申しました楠の大木でありました。も一つは娘の幼明でありました。今年十八歳になるところの、評判の美人で、楊柳の趣きを持った楚々たる風姿、そのしなやかな細そりした腰部と円熟してきた臀部の肉附とは、見る人の眼をうっとりさせるものがありました。他のも一つは、張一滄自身の食欲でありました。多食と美食とで豚のように肥え太りながら、老来ますます健啖で、二三日に亘る長夜の宴にも、最後まで踏み止まるだけの力を持っていました。
 珍らしい大雪のあとで、楠の大木の梢からは、雪なだれが時々、地響きをさせて落ちていましたが、そして危急な風説は次第に確実なものとなっていましたが、張一滄は何か信ずるところあるらしく、幼明の祝宴を張ったのであります。
 張家は旧家で大家でありますから、同じ屋敷内に住んでる家族も多く、町の有力者や幼明の友だちが、身辺のことに慴えて大抵早めに辞し去った後も、そして内々のささやかなものとして催された宴ではありましたけれど、なお相当な賑かさで、二日目の夜まで続きまして、幼明の母親が二年前に病歿して席にいない淋しさも、殆んど目立たないほどでありました。
 食卓の料理の皿はいくら食い荒らされても、また次々に運ばれてきました。鹿鞭《ろくべん》の汁の甘美さや、銀茸《ぎんこ》のなめらかな感触や、杏仁湯の香気などが、くり返し味われまして、七面鳥や家鴨や熊掌《ゆうしょう》などは、もう箸をつける者もなく冷たくなっていました。本場紹興酒の大彫《たあちあん》が、汲めども尽きぬ霊泉となりました。
 男の人たちは拳《けん》の勝負に夢中になってるのもあり、女の人たちはうとうとしてるのもあり、ただ一滄だけがいつまでも杯を手にしていました。幼明はただ朗かな様子で、宴席から出たりはいったり、小鳥のようにまた王女のように自由自在な振舞をしていました。

 張一滄の様子には、初めの泰然たるさまにも拘らず、次第になにか苛立たしい憂鬱の曇りがかけてきました。下僕の一人が、一枚の紙片を持って来ました時、それを読み下した彼の手は、明らかに震えました。彼はその下僕にいいました。
「朱文が帰ったかどうか、見て来い。帰っていたら、すぐ連れてくるんだ。」
 その朱文は、前日の宴席の初めにちょっと列したきりで、一滄になにか囁いて退席してから、そのまま姿を見せなかったのです。そのことから、誰も皆、内心では異常なものを感じ取りながら、素知らぬ様子をしているのでありました。
 だいぶたってから、先程の下僕が現われて、朱文が帰ってきたことを告げると、張一滄はいくらか眉根を開いたようでしたけれど、朱文自身がなかなかやって来ませんので、その眉根には或る激しい色が濃く漂ってきました。
 そこへ、幼明がやって来て、静かにいいました。
「お父さま、なにか御心配なことでもありますの。」
 一滄は酔眼をぱっと開いて、泣くような笑顔をして、掌で上唇の髭をなでました。
「いやなんでもないよ。少し酔いすぎたようだ。」
 その顔を、幼明はじっと眺めて、また静かにいいました。
「朱文さんを、あまりお叱りなすってはいけませんわ。」
 一滄の眼に、ぽつりと涙が浮んで、彼はただ、無言のうちに幾度もうなずきました。それからまた酒杯を手にしました。

 朱文が、
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