誓って本当だ。」
「それでは、私に一つ望みのものがございます。お嬢さんなどは、私の妻には勿体ないから、お断り致しますが、あの……楠を、私に下さいませんでしょうか。」
「え、楠、珍らしい望みものだの。よいとも、お前が蓑虫を退治てくれたあの楠、あげるとも。だが、何にするんだね。」
「ただお貰い申しておけば、それでよろしいのです。あの楠が元気に茂ってる限りは、永久に私の思い出になります。」
「永久に……思い出に……。」
その言葉にひっかかって、張一滄が考えこんでいますひまに、朱文は急に頭を下げて、ちょっと外出の急用があるのでまた後刻に……といいすて、身を飜えして出かけてしまいました。
張一滄はそこに暫くぼんやりしていました。すると、幼明が駆けてきて、今そこで朱文に逢ったが、いつになく大変取急いでる様子だったと、眼をまるくしていました。
「お互に心に傷を受けないでよかった…… 楠のことをお頼みします……とそうあの人はいいましたが、何のことか私にはよく分りませんわ。」
張一滄はその朱文の言葉を幼明に繰返さして、じっと考えこみましてから、急に騒ぎだしました。朱文は何処かへ行ってしまうのかも知れない、早く引止めなければいけないと、召使たちを四方へ走らせました。
けれども、朱文の行方をつきとめることは出来ませんでした。彼が愛してるとかいう妓女の家へも尋ねさせましたが、彼もその女もいませんとのことでした。夜遅くなって、召使たちはすごすごと四方から戻ってきました。
実は、その頃、朱文はその愛する妓女の彩紅の奥室で、一切の人を避けて、酒を飲んでいました。
彩紅は二十三歳の、体躯も肉附も豊かな、明朗な美人で、一点、清澄な瞳の奥に深い悲しみを宿したようなところが、時あって仄見えるのでありました。今夜はどういうのか、その一点の悲しみが、刷毛ではいたように拡がって、彼女を淡く包んでるようでした。彼女は空色の服をまとって、長椅子の上に、朱文の腕によりかかっていました。
室の片隅の衣裳箪笥の前の小卓には、脱ぎすてられたままのものらしく、雲竜の華麗な刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]のある衣裳や、艶やかな銀狐の毛皮の襟巻や、その他の絹類が投げ出されていました。そしてその箪笥の横に、二挺の銃が立てかけてあるのが、異様に目立っていました。
二人の前の卓上には、いろいろな色の紙を貼りつめた
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