難を免れました。
 ただ、茲に特記しておきたい一事は、張家の倉庫の前に、二名の武装匪賊の死体が横たわっていたことであります。鋭利な刃物で顔面や胸部を抉られて、血に染んで倒れていました。そしてその銃と弾薬だけは誰かに奪われて、どこにも見出されませんでした。死体はすぐさま、ひそかに町外れの野原に埋められてしまいましたが、そのことがいつしか町人たちの間に拡まって、奇怪な印象を与えることになりました。
 それはとにかく、町にとっての大事件は、朱文を遙か高いところへ持上げ、彼に英雄めいた風格を与えることとなりました。彼の姿を探し求める眼差が、町の至る所に光っていました。
 朱文はそれを避けてか、青布の苦力たちをねぎらってから、張家の小房に閉じ籠っていましたが、その日の夜、ひそかに外出の仕度をしたところを、張一滄につかまりました。
 張一滄はひどく面窶れがして、その肥え太った身体は、骨ぬきのぶよぶよの肉ばかりのようでありました。上唇の髭がしょんぼりと垂れて、頬のへんにぴくぴくした震えが見えていました。
 彼は朱文の小房の外に、だいぶ長い間佇んでいたらしく、朱文が外に踏み出すや否や、ひどく慌てて、眼をしばたたき、一足あとに退り、そのままそこに跪かんばかりの様子で、急に両手を差出しました。
「おう朱文、待ってくれ、待ってくれ。何処にも行かないでくれ。」
 朱文はいつもの通りの冷静な態度で、恭しくお辞儀をしました。
「あなたにお目にかかりたいと思っておりました。」
「ああそうか、それはよかった。私もお前に逢いたいと思ったが、何しろあの騒ぎで、それに……とんでもない思い違いをしたり……なあ勘弁してくれや。」
 朱文は彼の手を執って、そこの横手の腰掛に彼を坐らせ、自分は慇懃にその前に直立しました。
「なあ朱文、もう何にもいわないでくれ。」と張一滄は息をついていいました。「みな私の思い違いだった。お前の考えが正しかった。お蔭で町中が助かったよ。」
「私はただおいいつけ通りにしたつもりでございますが……。」
「いいつけ……いやいや、もういわないでくれ。まったく……お前は偉い男だ。私の眼に狂いはなかった。町でも大変な評判だ。何でも望み通りのことをしてあげよう。町を救った神さまも同様だからな。娘の幼明もあげよう。何でもあげよう。望み通りのことをしてあげるよ。」
「本当でございますか。」
「ああ、
前へ 次へ
全11ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング