ないような秘密なものは一つもなかった。世間体を考慮する……というより寧ろ、本能的に体面を守って、怪しげなことは一切闇に葬ったのに違いなかった。だが第一、怪しげなことがこの男に何かあったろうか。ごく平凡な好人物で、怠惰が唯一の美徳であって、そのアナーキズム的な思想も、常識的空想の一つの現われに過ぎなかったのではなかろうか。外からの働きかけを適宜に受け容れるだけで、自分から動きだすことのなかったらしいこの男に、怪しげなことのないのは、当然だった。それでも、彼には――中江には――その書き散らしの紙片がへんに珍らしく、好奇心がもてるのだった。軽い微笑さえ彼の顔に浮んでいた。その反故《ほご》同然な紙片をめくってゆくうちに、ふと、もしこの男が死んでしまったら、これらの反故も何かの価値をもつかも知れない、などと考えるのだった。大抵の者は、何かしらに働いてるものは、死んだあとそれ相当の空虚を世に残すのであるが、この男は恐らく何の空虚も残さないだろうから、それだけにこれらの反故がこの男の存在に代って貴重なものとなるかも知れない、などと彼は考えるのだった。そしてそういう考えが彼に淡い慰安を齎すのだった。彼
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