思うのだが、その勇気がなく、別に気恥しいことも後ろ暗いこともあるわけではないが、彼はそこの電柱にもたれて立止り、そのままずるずると腰をすべらして、屈みこんでしまったのである。水の底にでも沈んでゆくような感じだった。しいんとなる……。そして何だか大きな声がしたので、眼を上げると、あんまりよく知りすぎ馴れすぎてるキミ子の顔が、その温い息で、上から蔽いかぶさろうとしてるようだった。彼は突然立上って、さようならと、自分で諾くように軽く会釈をして、茫然と佇んでる彼女の手を取り、その街路のまんなかで、二三度強く打振って、それから、通りがかりの自動車にとび乗ったのである。
そして彼は今、書斎にのんびりと寝ころんで、電燈の光の下で、ばらばらの紙片を、珍らしそうに調べるのであった。置戸棚の抽出の一つに、折にふれて物を書きとめた紙片が投げこまれていて、もうそれが随分たまってるのを、何ということもなく、取出してみたのである。短い感想や、詩みたいなものの断片や、単なる覚え書や、いろんな符諜や……よくもまあこの男は、役にも立たないものを書き散らしたものだった。全く訳の分らないものもあった。その代り、人前に出せ
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