いるうちに、中江ははっきりしてきた。
「そうだ、君はなぜ、自由に僕の家に来てくれないんですか。僕たちは、どうしてこう卑屈なんだろう……。」
 彼女の眼からすーっと涙がひいて、黒目が底深く光っていた。そして彼女は彼の肩に縋りついて、ほんとう、それほんとう? と尋ねかけたのだった。卑屈なのは先生の方で、自分はどうなろうと構わないけど、それでも、先生には、恋愛なんかよりも、もっと大きな誇りがあるべきだし、もっと大きな仕事がある筈だ、と彼女は云うのだった。社会的な動き方をしてる者は、個人的な問題に煩わされてはいけないので、そういう意味から、先生はあくまで自由でなければいけないのだ、と彼女は説くのだった。先生にもし不幸な恋でもあるなら、そんなものは忘れてしまわなければいけないし、自分たちはあんまり弱かったから、これから強く生きる覚悟をしなければいけない、と彼女は云うのだった。そうした彼女は、社会運動に関係しながら、バーの女給をしたり、今では啓文社の校正部に勤めたりして、一人で男々しく働いてる彼女だったが、その彼女がいつしか自分で自分の言葉に涙ぐんで、中江の肩により縋り、じっと畳の上を見つめて、唇
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