がっていた。だが、床の間の隅にたてかけてある革の鞭を見ても、何の感慨も起らなかった。凡てが夢の中の出来事のようだった。或はそう思えるほど、彼の精神には張がなかった。ただ懶く、暫くはどうにもならないという気持から、学校の方へは向う一週間休講の電話をかけさしておいた。
 その電話が、三谷政子を心配さしたらしかった。彼女は中江の母方の親戚の者で、一度不縁になってから、もうすっかり再婚をあきらめているらしく、それかって今後の生活の方針を立てるでもなく、凡てを運命に任せたような落付きで、中江家に家事の面倒をみながら寄食してるのであって、年令より老けて四十歳ぐらいには見え、万事おっとりして善良で無口だった。中流階級のこういう種類の婦人は、忙しい活発な家庭では邪魔物となり、淋しい静かな家庭では温良なあたたかみの基となるのであるが、中江のところが丁度この後者で、中江が独身でいてもさほど不自然さが目立たないのも、彼女に負うところが多いのだった。中江は書物を読むでもなく眠るでもなく、ただぼんやり寝ていて、家の中で静に用をしながら時々心配そうに覗きに来る彼女を、改めて見直すように眺めた。かるく雀斑をうかした
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