の明朗な精神の前にぶちまけてしまいたい欲求も感じたが、それが出来にくい卑屈さを見出すと、何かに駆り立てられるような慌しい気持になって、席にゆっくり落付いていられなかった。

 中江は伯父の没落以来、自力で生活を立直す覚悟で、私立大学の語学講義の時間を増して貰うよう、その専任の人に頼んでおいたし、なお、或る書肆と、アンリ・ファーブルの普及版全集の出版契約をして、先ず少年のための読物から次に昆虫記へと、順次に飜訳してゆくつもりで、最初にポール叔父の話に手をつけていたが、学校の方は見当がつかず、飜訳の方は少しもはかどっていなかった。第一何事にも気乗りがしていなかった。始終先の方に空疎な期待だけがあってぼんやり時間を過すのだった。そのくせ、気持だけは忙しかった。彼は小泉の家を出て、初夏の陽光のなかに自分を見出した時、珍らしく散歩の心をそそられたが、それも束の間で、漠然とした期待と気忙しさとのために、まっすぐ自宅へ戻っていった。何か特別な用事が出来てるかも知れない、誰かが訪れて来るかも知れない、名台屋の友人に借金を申込んでおいたその返事が来てるかも知れない……が何よりも、キミ子から電話があるかも知れない……とそんなことが、しきりに彼をせきたてるのだった。ところが家に帰ってみると、いつもの通りで、事件も人も電話もなく、何でもない手紙が二通きてるきりだった。
「電話も、どこからもなかったんだね。」と彼はくり返して尋ねた。
 それでも、昨日から家を空けていたというその時間的な距りが、多少新たな気分をそそって、彼は書斎に坐ってみたが、中途で放り出されてる飜訳の先を読ける気にもならなかった。倦まず撓まない努力は、彼にはもう縁遠いものとなっていた。組織の弛緩……そんなことを彼はまた反芻してみ、キミ子はあれからどうしたろうかと、じりじりしてくるのだった。
 そういうところへ柴田研三がふいにやって来たので、中江はちぐはぐな気持で逢った。柴田とはそれが二度目の応対だったが、中江の癖として、態度には鷹揚な親しみを見せた。だが柴田の方では、へんに警戒の態度で、言葉の真意が掴めないような話し方ばかりした。
「職工たちの空気が、次第に、不穏になってくるようですから、私も心配しています。」
 だが、いかにも職工長らしい大きな身体を、更に大きな洋服にくるんで、どっしりとあぐらをかいてる彼の様子には、心配らしいところは見えなかった。
「然し今のうちなら、舵の取りようで、どちらにでも動きそうです。」
 どちらにでも……というのは、要するに、中江の伯父のものだったN製作所が、伯父の没落と共に人手に渡ったについて、二つの動きが職工たちの間に現れたのであって、一つは、そういう場合、旧社長から従業員に対して慰労手当が出るのが至当で、それを要求しようという運動であり、他の一つは、茲に若干の資金を集めて、それを従業員全体の負担とし、あくまで新社長に反対して、工場を従業員の手で経営しようという運動なのだった。製作所といっても、元来資本十数万円ほどの小さなものなので、若干の金が出来れば、新社長の手から奪い取れる筈だった。そして彼は職工長として旧社長の恩顧を受けてるし、従業員たちも旧社長の人格を徳としてるので、出来るならば後者の方法を取りたいのだが、新社長との交渉のために、果してどれだけの金があればよいのか、その辺の見当がつかずに困ってるというのである。
「そんなことは、僕には分りませんね。」と中江は答えるより外に仕方がなかった。
「左様でしょう、私にも分りませんから、困りました。」
 そうして柴田は、如何なることにも顔負けしないだけの皮膚と脂肪とを備えた顔に、微笑の影さえ浮べないのだった。一体何の用件で来てるのか、更に見当がつかなかった。中江はいらいらしてきて、それを率直に尋ねたのだが、柴田は平然として、旧社長の甥御だからただ御報告にあがったのだと、更に不得要領な返事きりしなかった。その図太い態度を見てるうちに、中江は西田のことを思い出したのだった。彼が口を利いて、組合運動の闘士たることを知悉しながら、伯父の会社に入れてやった職工で、憂欝な影のなかに純情を包みこんでるような男だが、それがこの柴田の下で働いてることを考えると、中江は急に好奇心を覚えた。
「話は別ですが、あなたのところに、西田重吉という職工はいませんでしたか。」
「西田……重吉。」
 柴田はそうくりかえして、咄嗟の瞬間に中江の様子を窺ったが、それから俄に態度を変えた。
「ああ、あの男ですか……たしかまだ工場にいたと思いますが、勿論、近いうちに解雇することになっている筈です。全従業員の共同経営となると、ああいう男は一刻も置いてはおけませんし、そうでなくてもですが、何しろ、解雇するには、一人の職工でも、時期をみなければなりませ
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