んし……。」
それはまた、中江にとっては、意外な言葉だった。賃銀値下げと馘首とに対する絶対反対は、あらゆる場合の主要条項たるべき筈だったのである。その点をつっこまれると、柴田は明かに狼狽の色を見せ、西田は全職工の一致結束を乱すとだけ云って、それから、改革を要する種々の細かな規定などをもちだして、くどくどと説き立てるのだった。そして、共済基金の涸渇から、貸出規定の改正などの点になると、彼は明らかに反動的な立場に身を置いていた。そういう話に中江は耳をかしながら、西田のこと――窮屈そうな態度と、鋭い眼付と、どこかインテリくさい蒼白い顔と、自負のこもった短い言葉附などを、何ということなく思い浮べてるうちに、ふいに形体《えたい》の知れない忿懣の情に駆られた。それは、西田に対する同情からでもなく、ましてイデオロギー的根拠があるものでもなく、彼がいつも被圧迫階級に対して漠然と感ずる同感の念に似たものであって、それだけに広く大きく、盲目的なものだった。彼は一挙に柴田の饒舌を遮った。
「とにかく、あの会社は、もう伯父のものではありませんし、まして、僕には何の関係もないのです。第一、工場のことなんか、僕には全く別な世界です。」
と、そこまではよかったが、中江はなお続けて、職工たちの運動に何の援助も助言も出来ない理由として、愚かにも、自分の貧窮をさらけ出してしまったのである。家は借家、電話は五百円の借金の担保にはいってる、知人から三千円ばかりの借金がある、其他、方々への支払の停滞が千円ばかり、なおさし当り、高利貸の厄介になろうかと考えていることなど、手当り次第にぶちまけてしまったのである。柴田は一寸面喰った形で、口を噤んでいたが、やがて、冷静とも冷淡ともつかない調子で云うのだった。
「いや、別に、御援助を仰ぎに伺ったわけではありませんから……。」そして彼はじっと中江の顔色を窺った。「然し、西田のような男と交際なさるのは、お為になりませんですよ。」
中江は自ら不愉快になって黙っていた。柴田もやがて立上った。いずれまた、会社の方の様子をお知らせに上るから、その節はよろしくと、口先だけの調子で云って、見切りをつけたような笑いを最後に残して、帰っていった。
一体彼は何のためにやって来たのかと、中江は後で考えるのだった。或は予め何の計画もなく、ただ様子を窺い旁々、利益の蔓でもあったら臨機に掴もうと、それくらいの腹だったのかも知れない。然し、単に旧社長の甥だからというだけではなく、これには何か西田が関係ありそうな気がした。少くとも、西田が工場内部で何かやっていることだけは明かだった。ところが、そう分ってはきたものの、以前は左翼闘士としての西田にあれほど好意を持ち、伯父の会社に周旋してやるほどの危険を敢てしたにも拘らず、今は殆んど何の関心も持ち得ない自分自身を見出して、中江はへんにうらぶれた気持になってゆくのを、どうすることも出来なかった。元来彼の性格として、首尾一貫する思想なり意思なりを持続することは甚だ少く、その代り、その時々の気分に囚われて自らそれを弁義《ジャスチファイ》することが多く、そのために、見たところでは、如何にも意志的で自信強そうに思わるるのだったが、そうした自己弁義のための反省は、彼を推進させる力とはならずに、現在の気分に沈湎させる用をしかなさなかった。そういう傾向が近頃では更にひどくなっていた。今も彼はそうした心理の渦みたいなところに巻きこまれて、それに僅かに逆らう気持から、以前の思想運動の仲間の動静や、ひいては多少とも西田のことまで、キミ子を使って探らしてみようかとも考えたのであるが、それも興味のもてない億劫さから、何の動きともならないで、ただ現在のうらぶれた無気力な気分に浸るばかりだった。そしてこのちらと動いた考えに、キミ子のことが浮んだのをきっかけに、また彼女のことを思い耽って、小泉のところで別れたきり電話もかけてこないのは、ふだん始終電話をかけてよこす彼女としては、どうしたことだろうと、そんなことが気になるのだった。
晩になって、夕食がすんでからも、中江は仕事もせず読書もせず、ただぼんやりしていた。そこへ、電話のベルが鳴ると、電気にでもふれたように飛び上った。果してキミ子からだった。――あれからどうなすったの、と尋ねてきた。あたしのことについて小泉さんと何をお話しなすったの、と尋ねてきた。今何をしていらっしゃるの、と尋ねてきた。どこにいるのかときいても笑って答えなかった。そして急にしおれた調子で、二十円だけ借して下さいというのだった。よろしいと鷹揚に答えると、彼女は調子を早めて、これから使の人をよこすからその人に渡して下さい、いずれ後でお話する、とそんなことを云ってしまって、さようなら、またあした……とだけで電話がきれた。
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