中江はほっとすると共に、何だか物足りなかった。それから身内に疲労を覚えた。寝転んでキミ子の使の者を待った。待つということだけに幸されて、時間が苦もなくたった。
女中が取次いだキミ子の手紙には、「先ほどのもの、この人にお渡し下さい。」とだけの走り書だった。中江はばかにされたような気持で、簡単に拾円紙幣を二枚紙にくるんで封筒に入れ、それを持って玄関に出てみた。三十歳くらいの、髪をひきつめに結った、粗末な黒っぽい着物の女が、玄関に立っていた。中江の姿を見ると、ぎごちない軽いお辞儀をした。それきりで、眼にも口許にも、何の表情も示さなかった。中江がじっと見ると、化粧のない浅黒い彼女の顔は、硬く石のようになった感じだった。
「これを、渡して下さい。」
「はい。」
低いが妙に澄んだ美しい声で、それから、一寸何かを待つように間をおいて、も一度ぎごちないお辞儀をして、そのまま出ていった。影のようなものが、中江の心に残った。初めはすっと刷毛でひいたようなそいつが、次第に大きく拡がっていって、中江からキミ子の姿を奪っていった……。
彼は、思い出したように、島村に電話をかけてみた。不在だった。で彼も、何ということなく外に出た。
吉松の一室に落付いた中江は、もう少し酔っていたし、酔ったふりも多少はあった。
「島村君、来ていないんですか。おかしいなあ……。」
脇息にもたれて、うっとりとした眼付をして、撮み物には箸をつけず、程よく盃をあけてる彼は、どう見ても好紳士だったが、ただ、小肥りの身体と、艶のいい長い髪の毛とに拘らず、眼の光が変に浮いていた。その眼が、眼鏡の奥にじっと見据えられると、神経質な不機嫌さを示すのだった。
「あら一人?」
やって来た静葉が、そう云った時、中江の眼はその不機嫌さを示した。そうのめのめと失望するものじゃないなどと、冗談口を利きながら、彼はじろじろ静葉の様子を――髪形や襟や着物や帯などを、眺めていたが、やがて、ふいに、真剣な調子になって、君は本気で島村君が好きなのかと、だしぬけに尋ねだしたあげく、島村君をいい加減にだますようだったら承知しないぞと、いやに真面目なのだった。別にからんでくるのでもなさそうな調子に、静葉も生一本の調子をだしてしまった。
「そんなら、もし島村があたしをだましたら、どうして下さるの。」
島村と呼びすてにしたのは、ただお座敷の戯れだったが、その調子に変につっかかってくるものを感じて、中江の方で眼をみはった。それは男の腕さ、などと受太刀になりながら、ふと自嘲の気味で、実は島村君には、眼の活発な断髪の美人がついてるようだがと、キミ子のことを、我にもなく持ちだしてみると、静葉は一寸首をかしげてから、それは、たしかキミ子さんとかいうひとではありませんかと、図星をさしてしまったのである。あのひとなら、あたしも一度ここでお目にかかったことがある、という。
「ほう、三人で、この家で……。」
中江はおどけた様子で、片手をあげて頭の真上を叩いたが、それだけでは胸の納まりがつかなかった。もともと島村と懇意になったのも、キミ子の紹介からであるし、キミ子を愛するようになってからは、彼女が島村の家に暫く厄介になったことがあるところから、二人の間を一寸疑ってみたほど、キミ子は島村に馴々しくしていたし、またキミ子の性質からしても、待合の中を見たいという好奇心くらいは持ちそうだったが、それにしても、静葉がキミ子を知ってるということは、キミ子と現在のような関係にある中江にとっては、妙に気恥しい打撃だった。キミ子は嘗てそんなことは色にも現わさないで、中江がこういう土地の酒を飲むことを、中江の健康のために心配してみせるだけだった。ばかりでなく、キミ子の生活の半ばは、実際影のなかに隠れて見えなかった。それに比べると、島村と静葉との間柄が、如何に影の少い公然たる朗かさを持っているかが、中江の眼に映じてくるのだった。
「呼ぼう、島村君を呼び出そうじゃないか。」と中江は云い出した。
「そうね。」
当り前だという調子で、静菓が自分で電話をかけに立っていった。機械的に一寸島田の髪に手をやって、引いてる裾を器用にさばいて、肥った大柄な身体をすっと襖の陰に消していくその後ろ姿を、中江はじっと見送ったが、その眼を膝に落すと、あぐらの足先にたくねたお召の着物の裾に、白いものがあった。よく見ると、そこがすり切れていて、一寸《いっすん》ばかり裾綿が覗きだしているのだった。それを眺めているうちに、彼は酒の酔がさめかかった。久しぶりに吉松へ一人でやって来たのも、行きつけの喜久本へはだいぶ不義理があるからのことだったが、着物の裾の破れから、そうした自分の不如意が頭にはっきり映ってきた。そしてそれが意識のなかに落付くと、逆に腹を据えて、ふみ枝や千代次まで呼
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