させるための好意からではあったろうが――ふいに中江の方へとび移ったので、そしてなおいけなかったことには、キミ子が中江の方にちょっと眼をあげたために、二人相並んで被告席についているという立場を、はっきり露出さしたのだった。それがまた、二人の肉体的関係をも露出さしてしまった。初めは思想的同感の伴ったものだったにせよ、今では変に錆びついてしまってる関係だった。中江のまわりに小鳥のように飛びまわっていたキミ子は、一種の求心力に引かされるかのように、次第に彼の方へ全身的にのしかかってくるし、中江の方では過去に対する疑惑嫉妬から、むりにも彼女を繋ぎとめようとするし、そうした結果息苦しくなると、キミ子はわざと冷淡な態度を装い、中江はしいて花柳街の酒に浸るのだったが、その無理が更にお互を求め合う気持をそそって、キミ子の方では神経が苛立ってくるばかりだし、中江の方では健康を害するばかりだった。そしてそれをお互に投影しあって、自分の方がお留守になり、キミ子は中江の神経の苛立ちを気遣っては、やけに電話ばかりかけてくるし、中江はキミ子の健康の衰えを気遣っては、感傷的な酒を飲むようになる。もともと、朗かに……晴れやかに……というのが二人の率直な希求だった筈なのに、事態は逆な方へばかり向いてゆく。中江がキミ子を小泉のところへ連れて来たのも、実を云えば、そうした事態にいくらかでも切りをつけようとする、一つの現れに過ぎなかった。然るに、診察は――もしくは第三者としての公平な言は――何の解決も齎してくれず、ただ事実を改めて証明するだけだった。キミ子は神経の衰弱並に過敏、中江は胃病に組織弛緩。殊にこの、恐らくは筋肉や皮膚や内臓や……否殆んど全身の組織の弛緩は、中江が漠然と而も不断に疑懼していたことだった。いやいや、診察なんかは……とそう咄嗟の反撥の気持が、すぐ側のキミ子の存在に絡まっていって、小泉の視線の前に並んでる二人の肉体が意識され、それがお互の体臭を分ち合ってることが意識されるのだった。
 窓外の木斛《もっこく》の青葉が、日に照され光って、いやに中江の眼にしみた。
 さて、用事は済んだから、という態度で、小泉の調子が一変して、久しぶりだから、あちらで、話していかないかと誘われると、中江は、全く無気力な状態になって、キミ子の方へ、もうこれでいいんでしょうと、先に帰ることを暗にすすめてしまった。キミ子の眼が底光りを帯びて、じっと見据えられたけれど、中江は何の反応も示さなかった。彼女は短い髪の毛をかき上げると、小泉の方へ苦笑に似たしなをして、活発に立上った。
 後に残った二人は、友人として、客間に対座したのだったが、それが中江にはへんに物珍らしかった。彼は近頃、どの旧友をも、ゆっくり訪れるということが殆んどなくなっていた。話は自然に、いろいろ知人の噂に及んでいった。先達て四五人集った時、中江に妻帯させようという陰謀が起りかけたと、そんなことまで小泉は話しだした。三十五歳過ぎの独身生活は、肉体的にも不自然だと、小泉は云うのだった。人間の身体はよくしたもので、これを比喩で云えば、需要供給の関係が自然と調和がとれるように出来ていて、資本の蓄積だの生産の過剰などということは、起らないようになっており、必要なだけの生産と必要なだけの消費とが、円滑に行われて、余計なものは単に通過させられるにすぎない。収支決算の帳尻がよく合っていくのだ。ところが、独身者の身体は、家計簿のない家庭のようなもので、収支の関係がめちゃくちゃになり、生産と消費との平衡がとれない。妻帯は一種の家計簿を備えつけることだ……。或はそうかも知れないと、中江は思うのだったが、現在の自分の経済的破綻――身体のことでなく、実際の生活の行き詰りが、大きく目についてきて、座にじっとしていられないような気が起ってくるのだった。
「尤も、あのひとのように……。」と小泉はふいに云っている。「あのひと、家庭を持ってやしないんだろうね。あのひとのように、やたらに貯蓄ばかりして、脂肪を皮下に死蔵するのは、まだいい方かも知れないが……。」
「いい体質じゃないんだね。」
「え?」と小泉は一寸眼をあげたが、「ああ、あのひとか、そんなところまでは分らないが、脂肪肥満は、とかく、新陳代謝の邪魔になることがあるようだね。」
 実際、どこか新鮮さの足りない身体だと、中江はまたもキミ子のことを考えるのだった。そこへ、小泉のところへ電話がとりつがれて、三時すぎに来て貰えまいかとの知人の頼みだった。折角の日曜もこれだからと、小泉は不平をこぼすのだったが、中江から見れば、研究旁々病院に勤めていて、知人の患者だけを面倒見てやる彼の落付いた生活が、余りに散漫で中心点のない自分の生活に比べて、羨ましくなるのだった。と共にまた、心の憂欝や実際的な悩みを、小泉
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