がっていた。だが、床の間の隅にたてかけてある革の鞭を見ても、何の感慨も起らなかった。凡てが夢の中の出来事のようだった。或はそう思えるほど、彼の精神には張がなかった。ただ懶く、暫くはどうにもならないという気持から、学校の方へは向う一週間休講の電話をかけさしておいた。
 その電話が、三谷政子を心配さしたらしかった。彼女は中江の母方の親戚の者で、一度不縁になってから、もうすっかり再婚をあきらめているらしく、それかって今後の生活の方針を立てるでもなく、凡てを運命に任せたような落付きで、中江家に家事の面倒をみながら寄食してるのであって、年令より老けて四十歳ぐらいには見え、万事おっとりして善良で無口だった。中流階級のこういう種類の婦人は、忙しい活発な家庭では邪魔物となり、淋しい静かな家庭では温良なあたたかみの基となるのであるが、中江のところが丁度この後者で、中江が独身でいてもさほど不自然さが目立たないのも、彼女に負うところが多いのだった。中江は書物を読むでもなく眠るでもなく、ただぼんやり寝ていて、家の中で静に用をしながら時々心配そうに覗きに来る彼女を、改めて見直すように眺めた。かるく雀斑をうかした円っこい彼女の顔は、微笑をも忘れたかのように静かだったが、眼に冷い険を帯びていた。何か怒ってるのかなと、中江は初めて思ったのだが、実際は彼のことを心配してるのだと分ると、彼は今になって云うのだった。実は、ゆうべ少し飲みすぎて、宿酔の気味だし、それに、少々調べ物があるから、一週間ばかり学校を休むので、決して心配なことはないと。そして彼は自ら苦笑したのだが、彼女の眼の冷い険は拭うようにとれて、彼女は子供にでもするように諾いてみせるのだった。
 そうしたことから、中江は当面の問題より彼女の存在の方へ眼を外らし、何かと用を考えだしては、その用を彼女に頼むのだった。彼女のうちには、無言の母親とも云ってよい温良さがあった。然し実は、中江には当面の問題というものはなかった。うわべは整然としてるようであるが、その下に、無気力な投げやりがあって、その投げやりの状態はただ、未来に対する漠然とした期待でもちこたえられてるのみだった。そしてその未来が、いつまでも未来で決して現在にならなくて、投げやりの現在が変に行き詰ってきたこと、それだけのことだった。中江はその中に当面の問題を探し求めたが、探し求めるところに
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