に言葉が出なかった。そして一寸間が途切れると、もう何も云うべきことが無かった。私達は黙り込んでしまった。
 私は頭と身体とが困憊しきっていた。二階に上って、椅子にかけたままうとうとしながら、凡てを忘れてしまおうとした。頭が茫として力が無かった。訳の分らない象《すがた》が入り乱れて、白日夢を見てるような気がした。……と、私ははっと我に返った。縁側に、障子の向うに、誰かがしょんぼり伴んでいた。それがはっきり見えてきた。「彼女だ!」と私は心に叫んだ。すると、その姿は煙のように消えてしまった。私は心乱れながら、縁側に出てみた。明るい日の光りが、大気のうちに一面に漲っていた。私はその真昼の明るみの中に、取り失った姿を探し求めた。菊代のことが頭に映じてきた。そして昨夜のことが……それは、噫、「彼女」を心に描きながら行った自涜行為に過ぎなかった。私は庭の方へ、かっと唾をした。その後で、堪らなく淋しく悲しくなった。
 私は不快と寂寥との余り、昼食も取らなかった。湯に行ってみると、蒼い血管の浮いて見える自分の肉体が惨めで汚く思われてきて、すぐに飛び出してしまった。外を歩く気にもなれなかった。家にじっとし
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