私は嫌になって無理に彼女へ渡す。すると、あんなにいつも抱きたがっていらしたくせに、と彼女は云う。そこで私は二重に封じられてしまうのだ。……封じられた私は、おずおずと子供の方を窺う。子供は母親の膝の上で乳を飲んでいる。私は其処に近寄って、乳房を含んでる可愛いい口元に見とれる。そういう私の様子を見て、彼女は慢らかな皮肉な笑みを眼付に浮べる。それでも私は幸福なのだ。そっと手を差出して、子供の頬辺や乳房を指先でつついては、少しからかってやりたくなる。しまいには、子供の顔と乳房との間に、いきなり自分の顔をつき込もうとする。柔かな肌と温い乳の匂い! すると私の頭は強く押しのけられる。「少し待っていらっしゃい、今飲み初めたばかりだから、」と彼女は云う。私は傍からおとなしく二人の様子を見守る。否それは二人でなくて一人である。子供は彼女の一部分なのである。私は犬が主人の手先を待つようにして、彼女の一部分たる子供が私の愛撫に許し与えられるのを、其処に屈み込んで待つのである。
斯くて私はいつのまにか、子供に対する権利を凡て、彼女に奪われてしまったのである。而も彼女はそれのみに満足しないで、家庭内のあらゆる権利を奪おうとした。
子供が出来ない間は、女中は少くとも、彼女の女中でありまた私の女中であった。然しそれも何時の間にか、彼女の女中となってしまったのである。
私は夕食の時に、時々酒を飲んだ。可なりいける方だったので、その時の気分によっては三合位飲むこともあった。自宅で三合飲むと可なり酔った。酔うと、子供に戯れたい欲求が――彼女の所謂不条理な子供いじめの欲求が、更につのるのであった。彼女はそれを嫌った。そしてなるべく晩酌の量を少くしようとした。私はそれに対抗して云い張った。彼女もしまいには我を折って、では少しと云いながらはる[#「はる」に傍点]に燗をさした。所が持って来られた銚子の中の酒は、余りに量が僅かだった。私は更に燗を命じた。すると、「まだあったかい、」と秀子が尋ねることもあった。「もうおしまいでございます、」とはる[#「はる」に傍点]が先に云うこともあった。そして二人はちらりと目配せをした。私はそれを見落さなかった。酒がまだあることをも知っていた。然し彼女等二人の間には前から相談が出来ていたのだ。私はどうすることも出来なかった。――私は煙草が非常に好きで、夜更しをしているうちに困ることがよくあった。それでいつも紙巻は一箱ずつ買わして置いた。所が一箱の煙草が非常に早く無くなってしまった。私は驚いて少し節制しようと考えた。秀子も常から煙草の毒を説いていた。然し俄に量を減ずることも出来ないので、私ははる[#「はる」に傍点]にまた一箱買うように命じた。所がその一箱は中々買われなかった。そして古い箱の中に、もう空である筈の箱の中に、二袋か三袋かの煙草がいつもちゃんと並んでいた。それも策略だったのだ。秀子とはる[#「はる」に傍点]と二人でした策略だったのだ。私はいつのまにか、意志の上での無能力者として取扱われていたのだ。……そういうことが相次いで起ると、私は自分の云い付けがはる[#「はる」に傍点]に少しも徹底しないような不安を感じだした。私の命令は、途中ではる[#「はる」に傍点]と秀子との商議に上せられ、そしていい加減に勝手に取計らわれるらしかった。この不安が次第に私の頭へ深くはいり込んできた。そして遂には、はる[#「はる」に傍点]に用を頼むのも遠慮しがちになった。何たる馬鹿げたことであったか!
斯くて私は子供を奪われ、女中を奪われて、孤立の自分を見出したのである。そして私の孤立を更に決定的なものたらしめたのは、私に対する秀子の態度であった。彼女は子供を中心にして家庭内のあらゆる機関を立て直し、あらゆる権利を手中に収め、そして子供の名に於て私に服従を求めたのである。私は服従せざるを得なかった。服従した上にも、種々の気兼ねをしなければならなかった。彼女の方には育児という正当な武器があった。私の方には無職という弱点があった。友人の紹介で得た飜訳の仕事も、気乗りがしなくて放り出していた。然し徒食しているのではなかった。その頃私は未来の文明批評家を以て自ら任じ、種々の研究を試みていた。然しそういう当もない机上の勤勉は、彼女の眼には大した価値も持たなかったし、また文明批評家という言葉の意味が空漠たると同じく、私の頭も空漠たる境地を彷徨して、何等確乎たる地盤をも有しなかった。彼女は私の未来を頼りなく思ったに違いない。私自身も実は余り頼り多く思ってはいなかった位だから。そういう不安から彼女は自分の方に責任を感じだし、自分の全権で家庭を立て直そうとしたのかも知れない。そして私を支持してゆくことを考えないで、子供を守り育てることをのみ考えたのかも知れない。然しそう
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