まうこと、子供の守りや何かで私の時間が非常につぶされること、それらを不満だとは私も別に思わなかった。然し私が堪え難く思ったのは、生活の凡てが子供によって規定されること、子供を中心にして割り出されることであった。
夜寝床の中にはいって雑誌を読みながら、余り煙草を吸ってはいけなかった。煙が室の中に籠ると子供に毒だった。雑誌の頁をめくるにも、なるべく静にしなければならなかった。――夜道くまで大声で話してはいけなかった。家の中で友人と談じ且つ飲みながら夜更しをするなどは、殊にいけなかった。八時過ぎになると、私は自分の書斎に退いて、寄宿人みたような態度を取らなければならなかった。――子供が眠っている時には、爪先でそっと歩かなければならなかった。戸棚の抽出を開けるにも、襖を閉めるにも、皆遠慮がちに力を抜いてやらなければいけなかった。夜遅く帰って来ると、宛も盗人のように足音を偸んではいって来、こそこそと表の締りをしなければならなかった。――やたらに嚔《くしゃみ》をしてはいけなかった。もし風邪ででもあると子供に伝染するからであった。――湯には晩にきりはいれなかった。子供を湯に入れるには、私と秀子とが二人がかりでなければならなかったし、昼間子供を湯に入れると風邪をひく恐れがあったし、私共と女中と三人の家内では、朝から晩まで湯を沸しとくのは贅沢すぎるからであった。――私は少し収入の道を講じなければならなかった。一人子供が出来てみると、これから何人出来るか分らなかった。それを考えると、私が父から受け継いだ財産だけでは少し不安だった。私は安楽な就職の口を二三の友人に頼んだ。幸にも思うような所がなかった。それで、文学をやってる友人の紹介で、或る飜訳を少しずつやりだすこととなった。――友人以外の人々と応待する時には、少しく行儀作法に注意しなければならなかった。私はもう書生っぽではなく、一個の父親だったからである。――其他種々。
子供に代ってそれらのことを規定し割り出すのは、皆秀子自身だった。私は子供のためという名に於て、出来る限りその命に服従した。而もその子供たるや、誰の児であったか!……否、子供は勿論私と秀子との児であったが、結局は誰の所有であり、誰の領有内の者であったか!
二月《ふたつき》三月《みつき》とたつうちに、まるまる肥ってくるうちに、子供に対する私の愛は俄に深くなっていった。餅のように滑かな肌、深くくびれた手足、絶えず小さな舌をちらちら覗かしてる真赤な唇、笑う度に見える片頬の靨、真黒な濡んだ眸、澄み切った青い目玉、いろんな渋め顔や笑い顔、何とも云えない乳の匂い、日の光に透し見ると、あるかなきかの金色の産毛、しなやかな髪の毛、……それを見ていると、私は自分の胸にじっと抱きしめたくなるのであった。そしては、如何なる場合をも構わずに子供を抱き取り、また如何なる時をも構わずに子供の頬へ唇を持っていった。然しそういう気持ちは、長く持続するものではなかった。三十分も子供を抱いていると、私はすぐに母親へ返したくなった。嫌がるのを無理に子供の頬へ唇を押しあてていると、やがてふいとその側から離れたくなった。
私はこういう愛し方を、単に気まぐれの愛し方だとは思わなかった。母親の愛を慢性の愛だとすれば、父親の愛は急性の愛だと思っていた。然し秀子から見ると――慢性の愛に浸り込み、半日でも子供を抱き続けて飽きもせず、傍から大事そうに眺めて楽しんでいる、秀子から見ると、私の愛はでたらめな危険なものだと思われたかも知れない。却って子供を苦しめるものだと思われたかも知れない。そして、それに彼女のずるい性質が更につけ加わったのである。ずるい性質だというのが悪いならば、子供を自分一人で所有したいという母性の本能的な策略なのだ。
私が子供の頬へ自分の頬を持ってゆく。すると、剃り立ての髯を押しつけるのは痛いからお止しなさい、と彼女は云う。――私が子供の口へ自分の唇を持ってゆく。すると、そんなことをすると乳を飲みたがって困る、その上子供が嫌がってるではありませんか、と彼女は云う。実際子供は私の唇をなめて、嫌な渋い顔をしている。――私は子供を抱き取る。抱いてるだけでは満足しない。子供の眼をいじり、小鼻をいじり、頭を撫で廻す。しまいには子供はむずかり出す。そして結局、母親から子供の機嫌を直して貰うか、または子供の機嫌が直ってももう抱いてるのが嫌になるかする。子供を玩具にするのは止して下さい、と彼女は云う。……彼女の云う所は凡て道理である。私は黙って引込むより外に仕方がない。然し、引込んでる私を此度は彼女の方から追求してくる。一寸便所に行ってくる間、一寸手紙を書く間、抱いていて下さいと云って子供を私に預ける。然し便所から出て来ても、手紙を書き終えても、子供を抱き取ろうとはしない。
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