しかねた。私を圧倒せんがための武器は、直ちに神聖なる宝と変った。その宝を軽蔑したという見地から彼女は私を攻撃してきた。
「あなたはこの児を誰の児だと思っていらっしゃるの。まるで他人の児のような態度をなさるのね。」と彼女は云い立てた。
「僕とお前との児だ! 然し……。」
私は先を云い続け得なかった。私が彼女を憎く思う時には、子供をも同時に憎く思う時であった。彼女に対する憤懣の念を、私は子供にまで押し拡げないではいられなかった。秀子は一寸の隙を見て、親戚や友人の家を訪れることがあった。私はよくその留守居の役を勤めてやった。所がともすると、彼女の帰りは予定よりも延びた。子供は乳を欲しがって泣き出した。初めはる[#「はる」に傍点]がお守りをした。夕方近くなると、はる[#「はる」に傍点]は食事の仕度にかかって、私が子守りをした。綺麗なセルロイドの風車を見せたり、護謨の乳首を含ましたり、庭に出たり、座敷の中を飛び廻ったりしたが、しまいには万策つきて、子供を泣くままに任せるより仕方がなかった。秀子は中々帰らなかった。私は憤ろしい心地になっていった。乳の時間も忘れて何処で遊びほうけているのか。子供を愛してると云いながら、子供に空腹の叫びを立てさして平気でいられるのか。……私は怒りで胸が一杯になってきた。そして、彼女に対する怒りで燃え立っている私は、泣き叫ぶ子供に対しても、訳の分らない腹立たしさを覚えてきた。子供を其処に投げつけたくなった。それをじっと我慢しながらも、やけに子供を揺り動かした。子供は更にひどく泣き出した。……秀子は玄関から荒々しく戻ってくる。そして私の手から子供を抱き取る――奪い取る、その眼付には、遅くなって済まないという色は少しもない。子供を泣かしたことを私に責める色ばかりである。私は黙然として、その母と子とに激しい敵意を覚える。そして、醜い反目が初まるのだった。
然し、私は秀子に対する腹立ちをなぜ秀子だけに限ることが出来なかったのか? なぜみさ[#「みさ」に傍点]子にもその腹立ちを押し拡げたのか? みさ[#「みさ」に傍点]子は自分と秀子との児だと、私ははっきり信じていた。否それは信ずる信じないの問題ではなく、確乎たる事実だったのである。それなのに、なぜ私はみさ[#「みさ」に傍点]子を……そうだ、秀子と自分とを対立さして見る場合に、みさ[#「みさ」に傍点]子を秀子の一部分だとして感じたのか? どうして感ずるようになったか?
育児は最も大なる務だと云われている。そしてそのことに、私は実生活に於てぶつかったのである。みさ[#「みさ」に傍点]子の出産後七十日ばかりたってから、私は秀子へ向って彼女のだらしない様子を軽く難じたことがあった。その時彼女はこう答えた。
「御免なさい。……でも、子供を育てる骨折りに、男ってものは案外思いやりがないものね。」
それが初めだったのだ。
秀子の妊娠中は、妊娠ということに免じて、私は凡てを彼女に許してやっていた。そして分娩ということに対して、敬虔な恐れと尊敬とを懐いていた。彼女も一種の神秘な気持ちで、精神を緊張さしていた。そして分娩という不可思議な危急な輝かしい一点を見つめている私達二人の心持ちには、何等の疎隔も存しなかった。そのままで時が経過していった。愈々の時機がやって来た。私は彼女の枕頭に坐って、彼女の両手を握っていた。二人の心は凡て、握り合った手の中に籠められた。そして偉大なる産みの力……而も案外安々と胎児は生れ出た。私の眼からも、彼女の眼からも、熱い涙が迸り出た。何という崇高な感激だったろう!
所が、分娩の感激を通り越してから、私達の心は異った方向へ外れ初めたのである。赤児に対する私の恐れは、赤児の発育と共に愛に変ってき、産褥に在る彼女の身体も無事に肥立ってゆき、そして産後六十日ばかりして、私達はまた健全なる夫婦として顔を合せた。然し予期したような生活は、私の前には展開せられなかった。
否、私は初めから、新たな生活を予期してはいなかったのだ。私が頭に描いていたのは、昔の生活そのままだった。私は生活を更新することを考えないで、秀子の妊娠によって、中断せられた古い生活の復活のみを、考えていたのである。分娩の後に育児ということが横わっているのを、私は勘定に入れていなかった。
私は私の全部を以て彼女に対しだした。そして彼女も彼女の全部を以て私に対してくれることと、予期していた。その予期が凡て裏切られてしまったのだ。「子供が居るから。」ということは、彼女の最後の而も至当な口実だったのである。
二人で郊外へ散歩にゆき、または音楽などを聴きに行く――二人の生活を純化し向上するもの――それが殆んど出来なくなったことは、私も別に憾みとはしなかった。私が夜更かしをしてるのに彼女が早くから寝てし
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