いう誤った考えは、まだ第二義的なものに過ぎなかった。根本の問題は、彼女の精神の据え所にあった。彼女はもはや進むということを知らなかった。そして現在の偸安をのみ事としていた。
女の退歩は、家庭の主となる所から、主婦として安住する所から、初まる。結婚し、子を産み、家庭内の権利を掌握する、其処から初まる。私はそれを知らなかったのだ。それを適当に導くことを知らなかったのだ。そしてただ、彼女のどっしりと落付いたお臀に対して、苛ら立つばかりだったのだ。
秀子の心は殆んど子供にばかり向いていた。私が何か用を頼んでも、それが満足に果されることは少なかった。私は夜遅く珈琲を飲む習慣があった。秀子が珈琲をいれてくれないと、私の方から催促するのであった。彼女は子供に添寝をしていたが、「はい只今。」と答えたきり、中々立ち上ろうとしなかった。暫く待って見に行くと、彼女はいつしか子供と共に居眠っていた。私は腹が立った。彼女を揺り起して責めてやった。彼女は「済みません。」と云って、そして顔では笑って居た。私は更にその鉄面皮を責めたてた。彼女は子供のことで疲れているのを口実にした。そしてこう答えた。
「はる[#「はる」に傍点]にさしたらいいじゃありませんか。私ばかりを使わなくたって……。」
私は声を荒らげないではいられなかった。彼女の方には私の反感が感染していった。一度争論を初めると、問題は拡がるばかりだった。醜い反目が生ずるばかりだった。
初めからはる[#「はる」に傍点]に頼むつもりなら、私はわざわざ秀子に頼みはしない。夜の珈琲一杯が私の気分に如何なる意味を持ってるかは、彼女も知ってる筈だった。私は彼女の全部で私に仕えて貰いたかった。私の方でも、私の全部で彼女に臨んでいた。然し彼女は私の方へ背中を向けて、子供の方へ向いていたのである。私はそれが不満だった。私に対する彼女の愛情が疑われだした。
彼女は私に対して、殆んど愛情の直接な表現を見せなかった。愛情を見せる場合には、多くは子供を通じてであった。「あなた」というやさしい二人称は、「お父さん」という距てある三人称に変えられていた。私に送るにこやかな眼付は、子供の笑顔に促された余波であった。私の意を迎える時には、子供が私の前に差出され、彼女の眼は先ずその子供の方を顧みていた。私達の生活は自由恋愛を貫き通した結果だっただけに、かかる変化が私には殊に鋭く感ぜられた。
然し私は、恋愛生活をいつまでも続けたいのではなかった。恋愛は常住の性慾であると思っていた私は、子供を設けた後までも恋愛に耽るつもりではなかった。けれども、私達の生活は何処までも愛の生活でなければならないと、私は信じていた。そして、愛は常住の心の抱擁であると思っていた。もし彼女の心が私の心より外の物に向けられる時があるとすれば、私達の愛はそれだけ不完全になるわけだった。所が彼女の心は、私の心から殆んど常に外らされて、子供の方をばかり向いていたではないか! 而もそれは私達の子供である。私の可愛いい子供、また私にとっては、彼女の一部分たる子供!
私はこの気持ちを、子供に対する嫉妬だと名付けていいかどうかを知らない。然しそれより外に云いようはないような気がする。秀子に対する憤りを、子供にまで蔽い被せねば止まない私の心は、如何に醜いもので毒されていたことであるか! そして子供の唇を吸い、子供の頬をなめる私を、じっと見ている秀子の皮肉な眼付の前に、私は幾度慄然としたことであろう! それでも私はなお、子供の可愛いい唇や頬に慕い寄っていった。すると秀子は荒々しく、私から子供を奪い取ってしまった。私は頭を垂れて、秀子と子供との一体の前に、意気地なく憐れみを乞うた。然しやがてその憤懣が昂じると、私は一種の敵意を以て秀子にぶつかっていった。子供にも当り散らした。秀子は私を頭から圧迫しようとかかった。醜い諍いが初った。そして結果は、私が秀子を殴り倒そうと、また子供を其処に放り出そうと、常に私の敗北にきまっていた。なぜなら、私は家庭内に於て自分の地位を失っていたから。
私は恐らく、子供が出来た新たな生活に進むに当って、外の態度を用意して置かなければならなかったのかも知れない。子供の出生は小事であって、其後が大事であるということを、考えて置かなければならなかったのかも知れない。
二階の書斎にじっとしていると、家の中はひっそりとしている。みさ[#「みさ」に傍点]子は取っているのであろう。秀子は寝そべっているのであろう。時々台所の方でことこと音がするのは、はる[#「はる」に傍点]が食事の用意をしているものとみえる。ぼんやりしていると、凡てが、生活が、自分自身が、佗びしく頼りなく思われてくる。そして、そっと足音を偸んで、憚るように二階から下りてゆくと、秀子が針仕事を
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