てる気にもなれなかった。「彼女」が何処かに、至る所に、立っているように思えて、しきりに気にかかった。
 そして夕方、座敷の隅に眠ってるみさ[#「みさ」に傍点]子を見出した時、私は泣きたいような心地になった。私はその側に惹きつけられた。みさ[#「みさ」に傍点]子は、片手を肩にかついだ恰好に布団から出して、すやすや眠っていた。私の気配《けはい》を感じてか、夢をみてか、それとも無心にか、乳を吸う形に唇を動かした。その小さな濡った唇に、私は自分の唇を持っていった。それから俄に身を引いて後ろを顧みた。誰も居なかった。ああ私は誰に気兼ねをしたのであったか! 私はまた自分の口を、子供の柔かな頬へ持っていった。それから額へ唇をあてた。香りのある温い子供の肉体と心とが、私の唇に感ぜられた。我知らず涙が出て来た。布団から出てる手をそっと入れてやろうとすると、みさ[#「みさ」に傍点]子は眼を覚した。私はそれを胸に抱き上げてやった。なおむずかるので、立ち上って歩いてやろうとした。一足歩き出すと、室の入口に秀子が立って、じっと私の方を眺めていた。私は眼を外らした。秀子は歩み寄ってきた。私達は無言のうちに子供を受け渡しした。その後で私は、自分が如何に卑屈であるかを感じた。私は両の拳を握りしめて、秀子の方を睥みつけてやった。彼女は其処に坐って、子供に乳を含ました。ごくりごくりと乳を吸ってる子供の上に、彼女は庇うように頬を押し当てていた。私は握りしめた拳をそのままに、自分の書斎へ逃げていった。
 二階にじっとしていると、階下《した》で子供の泣く声が聞えてきた。それを賺してる秀子の声もかすかに聞えてきた。乳の出が悪くなったのを、一人は泣き一人は困ってるのだ。私は堪らない気がした。
 その晩から、私は一人二階に寝た。私は凡てを失ってしまったのだ。秀子をもみさ[#「みさ」に傍点]子をも家庭をも愛をも。私の手に残ったものは何もなかった。然し私に残ってるものは唯一つあった。それは「彼女」――「理想の女」であった。永久に具体的な形を取ることのない女性だった。私はそれに囚えられてしまった。そして、あらゆる持続的な男女関係が恐ろしくなった。一人の女を守る時、私は必ずやその女を「理想の女」に照して眺めるに相違ない。然るに凡ての女は、たとえ恋した女でも、私にとっては「理想の女」の仮象に過ぎない。仮象はやがて本物のため
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