ぶしてしまった。酔いつぶれると、ただ空虚な渦巻きの世界のみだった。
 翌朝遅く、爛れた舌を鍋の鳥で刺戟しながら朝食を済すと、私は菊代に碌々挨拶の言葉もかけないで、慌しく其処を飛び出した。空が晴れていた。明るい日の光りの下で、自分自身が堪らなく惨めに思えた。凡てが穢らわしく呪わしかった。そのくせ意識がぼんやり曇っていた。何か忘れたものがあるようだったが、それがどうしても思い出せなかった。
 私は他人の家へでもはいるような気持ちで、ぼんやり自家の門をくぐった。
 所が、其処に出て来た秀子の顔を見ると、私のうちにむらむらと反抗の気分が湧いた。彼女はお帰りなさいとも云わないうちに、冷然と、それでも眼を伏せ唇をかみしめながら、真先にこう云った。
「男の意地って下らないものね。」
 私が叔父の家へ泊ったことと彼女は思ってるのだ、そう私は推察した。そして云ってやった。
「何が下らないんだ?……叔父の家へなんか泊るものか。」
「そうでしょうとも。」と彼女は答えた。「どうせ、穢ならしい狭苦しい家なんでしょうよ。」
 彼女は顔の筋肉一つ動かさなかった。私は彼女から極端な蔑視を受けてることを感じた。然し咄嗟に言葉が出なかった。そして一寸間が途切れると、もう何も云うべきことが無かった。私達は黙り込んでしまった。
 私は頭と身体とが困憊しきっていた。二階に上って、椅子にかけたままうとうとしながら、凡てを忘れてしまおうとした。頭が茫として力が無かった。訳の分らない象《すがた》が入り乱れて、白日夢を見てるような気がした。……と、私ははっと我に返った。縁側に、障子の向うに、誰かがしょんぼり伴んでいた。それがはっきり見えてきた。「彼女だ!」と私は心に叫んだ。すると、その姿は煙のように消えてしまった。私は心乱れながら、縁側に出てみた。明るい日の光りが、大気のうちに一面に漲っていた。私はその真昼の明るみの中に、取り失った姿を探し求めた。菊代のことが頭に映じてきた。そして昨夜のことが……それは、噫、「彼女」を心に描きながら行った自涜行為に過ぎなかった。私は庭の方へ、かっと唾をした。その後で、堪らなく淋しく悲しくなった。
 私は不快と寂寥との余り、昼食も取らなかった。湯に行ってみると、蒼い血管の浮いて見える自分の肉体が惨めで汚く思われてきて、すぐに飛び出してしまった。外を歩く気にもなれなかった。家にじっとし
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