じっとして居れないで、室の中を歩き出した。縁側に出てみた。卓子の前の椅子に腰を下した。窓から外を覗いてみた。そして漸く気分が和らいだ。然し、取り返しのつかないことをしたという惨めさが、深く私の心に残った。
嫌な――嫌忌すべき日が続いた。絶えず冷笑的な眼で秀子から窺われてることを私は感じた。その眼は私の夢の中までも覗こうとしていた。私は数日前に千代子の夢を見たと思って眼覚めた時、自分が遺精してることを知った。その時はさほど気にしなかったが、今になって思い出すと、穴にでもはいりたい気がした。それでも私は、秀子の執拗な眼付から隠れて、やはり千代子の夢をみ続けた。夢をみて夜中にふと眼を覚すと、先ず秀子の方を顧みた。そういう懸念のために私の清らかな千代子の幻は、どんなに毒されたことであろう。私は秀子を本当に憎む気になった。然し千代子はもう故人なのだ! 私はどうすることも出来ない淵へ陥ってゆく自分を見た。恋人に別れる悲痛さはまだ堪えられる。亡き人に恋し初めたという悶えは、どうすることも出来なかった。
或る夜、私はまた千代子の夢から覚めた。隣りの床に寝てる秀子の方を窺うと、彼女は眠っていた。私は仰向に真直に寝返って、天井を仰いだ。絹覆をした電灯の光りが、室の中に薄ぼんやりと湛えていた。夢のような静けさだった。私は天井に眼をやりながら、消え去った幻の跡を追っていた。長い時間がたった。と、何かに私はぞっとした。あたりにそっと気を配ると、秀子がぱっちり眼を開いて、私を見つめていた。私は息をつめた。じっとしていた。暫くすると低い落付いた声が聞えた。
「あなたは、千代子さんの夢をごらんなすったんでしょう。」
私は黙っていた。
また囁くような声が聞えた。
「私もみました。」
暫く沈黙が続いた。
私は秀子の方へ顔を向けた。彼女は大きく眼を見開いて、なお私の方を見つめていた。
口をきっと結んで、頭をがっくりと枕にのせ、瞳を据えていた。その顔全体が仄白い蒼さで浮き出していた。まるで死人の顔だ。私は冷たい戦慄が背中に流れるのを覚えた。すると、彼女もそれを感じてか、急に布団をはねのけて、上半身を起した。そして私の方へ向き直ると、慴えたような調子で叫び出した。
「私はもう嫌です。あなたと一緒の室に寝るのは。二階に寝て下さい。気味が悪くって嫌です。」
私は惘然として、急には言葉が出なかった
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