で佇んでる所、そういう極めて瞬間的なものばかりだった。然し夢からさめた後で、何だか妙な気がした。他の凡てのことがぼやけて、彼女のみが馬鹿にはっきり残っていた。勿論その顔立や姿などはぼんやりして分らなかったが、「彼女だ、」ということだけが明瞭に頭へ刻み込まれた。その上、夢の後で変に不安な胸騒ぎがした。どうも不思議だったのでつい秀子へ口を滑らすこともあった。「そうお、」と秀子は簡単に答えた。私も大して気にはしなかった。
所が、度重なるに従って、私は気になりだした。千代子の夢をみた後で、彼女に対して、しみじみとした、やるせないような、胸が苦しくなるような、変梃な気持ちを覚えた。しまいには、夢をみないのにみたと、眼を覚す瞬間に感ずるようになった。そして、私は一種の愛着を彼女に対して懐くようになった。その愛着の情が次第に募ってくると、いつのまにか「理想の女」と「彼女」とが一体をなして、私の心を惹きつけてしまった。私は夜早く寝るようになった。外へ出かけて早く帰って来るようになった。夜中に何度も眼を覚した。それは何とも云えない蠱惑的な楽しみだった。私はその怪しい瞬間的な愉悦に、自らつとめて耽ろうとまでした。そしてなお私が心を惑わしたことは、秀子までが彼女の夢をみたのだった。
或る朝、秀子は私に云った。
「今朝がた、千代子さんの夢を見ましたわ。」
私は驚いて彼女の顔を見つめた。そして口早に尋ねた。
「え、どんな夢? 何をしてた所だ? そして、初めてなのか、また何度もこの頃みるのか?」
私はへまだったんだ。秀子は私の様子を見て、何かに慴えたように肩を縮め、暫くじっと私の眼の中を覗き込んだ後に、漸く答えた。
「覚えていません。」
「覚えていないことがあるものか。どんな夢だったんだ?」と私はたたみかけて尋ねた。
彼女の様子は俄に変った。彼女は冷笑的に答えた。
「あなたは、まるで恋敵きみたいな調子ね。」
私は何か大きなものにはね飛ばされたような気がした。云い知れぬ憤りで頭が熱くなった。手の届く周囲を見廻した。敷島の一袋が眼にはいった。それを取るといきなり彼女へ投げつけた。煙草は彼女の所まで届かないで途中で落ちて散らばった。
「馬鹿ッ! 恥を知るがいい!」
そう云いすてて私は二階へ上った。
然し、書斎の中でほっと我に返ると、私は顔が真赤になった。私こそ恥を知るがいいのだ。私は
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