している。私は一寸喫驚する。向うにみさ[#「みさ」に傍点]子が眠っている。私は其処に寄ってゆく。一寸指先で頬をつつくと、眠りながら微笑む。「お止しなさい、」と秀子が云う。私はなお執拗になる。口を押しつけて頬や唇を吸う。子供は眼を覚す。しまいに泣き出す。私はもう嫌になる。「おい、お抱きよ、」と秀子へ云う。「知るものですか、勝手に起しといて、」と彼女は答える。私の方も意地になる。彼女の方も意地になる。子供はなお泣き立てる。はる[#「はる」に傍点]が台所から出て来て、子供を抱く。私は不機嫌になる。いつまでも黙っている。やがて秀子ははる[#「はる」に傍点]に云う、「そっと寝かして、用をしておしまい。むずかったらお父様が守りをして下さるだろうから。」私はそのあてつけに腹を立てる。子供は暫くおとなしく寝ている。やがてむずかり出す。遂には泣き出す。「子供を守りするのは女の役目だ、」と私は秀子へ怒鳴りつける。「子供をいじめるのは男の役目ですか、」と彼女は反問する。口論が初まる。私ははる[#「はる」に傍点]を呼んで、子供を抱けと云いつける。「いいから用を済しておいで、」と秀子は云う。はる[#「はる」に傍点]は秀子の方に従う。子供は泣いたまま放って置かれる。私は逃げ出すより外に仕方がない。「羽織を出しとくれ、出かけるから、」と秀子へ云う。「勝手にお出しなさるがいいわ、」と彼女は答える。私は箪笥の抽出から、むちゃくちゃに着物を引きずり出す。そして羽織だけを取代える。秀子は漸く立って来て子供を抱く。そして着物を引き散らしてる私を冷然と見下す。私は赫となる。自分自身が醜く、彼女が憎くなる。彼女がもし子供を抱いていなければ、また殴りつけるかも知れないと自分自身を恐れる。私は出かけようとする。「着物をどうするんです?」と彼女は私を追求する。「勝手に出せというから出したんだ、」と私は怒鳴り返す。冷やかな沈黙が落ちてくる。今にも破裂しそうな反感が募ってくる。危い! 私は外へ飛び出す。
 斯くて私の彷徨は初まったのである。私は不在なことが多くなった。そして少くとも初めのうちは、万事がうまくいった。
 私はこんな風に考えた。私達が何かにつけて衝突し合うのは、いつも鼻と鼻とをつき合してるからではないかしら。余りにも近くくっつき過ぎてるからではないかしら。会社員みたいな生活が、神経の鋭敏な現代人には最も適し
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