てるのではないかしら。良人は朝から会社へ出かけて、必要な糧を稼いでき、妻は家を守って子供を育ててゆく。夕方良人が家に帰ると、一日見なかった妻の笑顔と子供の声と、晩酌の食膳とが、綺麗に整って待ち受けている。食事が済むと、良人は昼間の疲れと食慾の満足とに、もはや眠ることだけしか求めない。妻は子供を寝かしつけ、やがて自分も寝てしまう。そして一日が終るのだ。二人の間には何等衝突すべき材料がない。良人は後顧の患いなくして、自由に痩腕を世に揮うことが出来、妻は生計の煩いなくして、自由に驢馬の足を家庭内に伸すことが出来るのだ。……そして、良人は食を与え妻は肉体を供し、子供――彼等の惨めな後継者――が、年と共に殖えてゆく。
 私は胸糞が悪くならざるを得なかった。それほど私のうちには遊惰な心が蟠っていたのだ。民衆の中堅たる最も健全勤勉な人々を、右のように漫画視して考えるほど、私のうちに頽廃的な気分が濃くなっているのであった。そしてこれは皆、家庭というものから根こぎにされた結果であった。
 夜遅く家に帰る時、私は牢屋へ戻る罪人のような心地がした。家の中には、秀子の息吹きが、その重々しい蛸の木が、頑として根を張ってるように思われた。私はおずおずと、寄せられてる玄関の戸を開き、それに自分で締りをした。家の者はみな寝ていた。私は子供の眼を覚すまいと抜足して、寝室へ忍び込み、冷たい蒲団の中にもぐり込んだ。秀子は大抵眠っていた。そしてごく稀には、薄日を開いて、而も底光りのする黒い眼で、私の方をじっと見た。彼女の口元には硬ばった微笑が湛えられていた。そしてその真白な歯並の奥から覗く糸切歯の金の光りは、私の心を魅してしまった。私は官能の奴隷となって、感覚の陶酔を彼女と自分とに与えた。而もそれは、平素の私と彼女との精神状態に対して、如何に不自然なものであったか! 翌朝になって私達は、互に白けきった気持ちで、眼を外らすことが多かった。斯くて私達はいつのまにか、真の夫婦関係から、愛し合う男女関係からは尚更、遠ざかっていった。
 それも結局私には気楽だった。然し、自分の性慾を金の力によって滿すような機会を、而も自分の前に差出された機会をも、私は決して掴まなかった。少くとも妻がある間は! と私は自ら誓っていた。所が、それが却って悪かったのだ。何という不条理なことであろう!
 私が外に出かけようとすると、何処へ
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