隅まで広告の最後の一行まで、丹念に見てゆくと、僅か二頁の新聞でも相当な時間がかかりました。
 会社がこれからどうなるものやら、そのようなことは誰にも分りませんでした。ただそこで無為な時間をつぶしさえすれば、多少とも生活の足しになるのでした。労務員の方には、仕事はないのに組合だけ出来ていましたが、事務員の方にはそれさえありませんでした。空白な日々が同じように過ぎてゆきました。屈辱なほどの佗びしい生活でした。
 その上、秘書主任の三宅弘子に、立川一郎は特別な引け目を感じていました。眼鼻立の尋常ないくらか長めの顔が、すらりとした体躯に比べて、へんに大きく見える女で、戦時中も終戦後も、いつも香水の匂いをさせていました。その秘書主任が、どうしたわけか、時折、映画や芝居の切符を彼にくれました。彼が便所に行く時、彼女は素知らぬ風で後からついて来て、にっこり笑みながら切符をくれました。彼女は専務水町周造と愛慾関係があるとかいうことでしたが、真偽のほどは分りませんでした。或る同僚は立川に、彼女の機嫌を損じてはいけないよと、仔細らしく注意したことがありました。そのため、というほど意識的ではありませんでした
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