待たされました。
 シャツに半ズボンのみなりで、そしてシャツが真白で手が黒くよごれてる姿で、久保はゆっくり出て来ました。
「珍らしいね。今日は休みか。」
 立川は笑顔もせず、何でもない当然のことをでも話すような調子で、会社に辞表を出してきたところだと言いました。
「それで、会社では受け附けたかい。」
「出しただけだ。」
「うむ、元来が、辞職願というやつは、辞職届とすべき性質のものだからね。よかろう、今日から僕等の仲間にはいれよ。」
「仕事さえあれば、結構だ。」
「仕事はしきれないほどあるよ。」
 その時久保は、口を噤んで、じっと立川を眺めました。少しく長すぎるほど眺めました。
「どうしたんだ、元気がないね。」
「僕は昨日から、どう言ったらいいか……精力的な沈潜した悲哀……そんなものがあるとしたら、それに囚われてるらしい。」
「精力的な沈潜した悲哀……僕には分らんね。」
 でも久保は、また口を噤んで、立川を眺めながら、考えこみました。立川は涙ぐみそうな気持ちで、頬の肉の震えを自ら感じました。
 久保は気を変えるように、立川の辞職と就職との二つの祝いに一杯飲もうと言い出しました。そしてあれこれと物色した上で、立川の望みに任せた内密な店へ出かけました。
 久保はよく飲み、よく食い、よく饒舌りました。印刷技術について、いつのまにか深い研究を重ねてると見えて、その方面のことをいろいろ説明してきかせました。立川にはさっぱり理解が出来ませんでした。ただ、写真と印刷とが同一の技術面で合致すべきだという久保の説を、ちょっと面白く思っただけでした。それに、彼は酒に弱く、早く酔ってしまいました。出された鮨には手をつけず、それをすっかりみやげに持ってゆくと主張しました。みやげがいるなら別に作らせると久保が言っても、彼はやはり主張をまげず、早く帰りたがりました。
 大きな鮨包みを大事そうにかかえて、立川は帰ってゆきました。久保は一人で残って飲み続けました。
 電車から降り、焼け跡をぬけ、以前はバスが通っていた大通りから、彼方に、矢野さんの家の欅の大木を見ると、立川はそこに立ち止って、帽子を地面に叩きつけました。それに気がついても、顔の表情を変えず、帽子を拾ってかぶり、欅に眼を据えたまま、酔った足取りで歩きだしました。
 太陽はだいぶ前に沈んでいましたが、まだ中空に明るみがありました。ただ透明
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