てる、秘書主任三宅弘子のところへ行きました。彼女は或る捕物帳の本をもう何度目か繰返し読んでいました。
立川は眼を伏せて封筒を差出しました。
「これを、専務のところへ届けて下さい。」
彼女の眼がきらきらと光るように彼は皮膚に感じました。が見返しもせず、そのまま足を返しました。
帽子を右手でくるくる廻しながら、廊下を歩いていますと、彼女が追っかけて来ました。
「立川さん、これ、何ですの。」
彼の封筒を彼女は指先で器用に丁寧に持っていました。
その顔を、彼はじっと見つめました。大きく見える彼女の顔は、今はなんだか細そりして、小皺がたくさんあり、反り返った睫毛の奥に瞳が白痴めいていました。
「僕のことを書いたものです。専務が見たら、あなたもあとで見て下さい。」
その自分の声を、彼は他人のもののように聞きました。
彼女は小首をかしげて、殆んど無心に人形のような笑顔をしました。
「専務さんより、先に見るわ。ね……。」
念を押されたのをそのままにして、彼も機械的に笑顔をしました。そしてくるりと向き直って、階段を降りてゆきました。
すべてが、何事もなかったかのように静穏に決行されました。雷に打たれた欅の大木が、痛ましい姿とは観ぜられず、ただ静かに静かに、水中ででもあるかのように、一瞬間、彼の眼に浮びました。
街路には斜陽が照り、高い建築の影がくっきりと印せられていました。その日向の方を、彼は歩いてゆきました。掘割の岸に出ると、ちょっとその中に飛びこみたくなる気持ちを、それも泳いでみたいためであることを、彼は夢のように感じました。
電車にも乗らず、四十分あまり歩いて、久保辰彦のところへ行きました。
久保辰彦は、専門学絞時代の彼の同窓で、暫く交際も途絶えていましたが、終戦後に偶然出逢ってみれば、やはり距てない仲でした。空襲で半焼けになった小さな印刷工場を、どこで金を工面したか久保は買い取って、数名の同志と共同経営をしていました。印刷機械其他万般の修理復興や、急激に輻輳してきた仕事の註文などで、寸暇もない有様でした。体力と精神力を睨み合せて、働けるだけ働くというのが、彼等仲間の主義でした。立川の会社の実状を聞いて、敗戦国と戦勝国との差だと笑い、戦勝国から敗戦国へ鞍代えして来ないかと勧めました。
その久保の工場の、土間に小卓を置いた狭い薄暗い室に、立川は三十分近く
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