が、彼は彼女がくれる切符を受け取りました。便所の室の手洗所のところで、何度か切符を貰いました。
その手洗所のところで、或る土曜日、明日彼女のアパートへ遊びに来てくれと彼は誘われました。郷里から鯛の浜焼というおいしいものが送って来たし、うまいウイスキーもあるから、御馳走するというのでした。彼はそこで長く立ち話をするのが嫌でしたから、曖昧な返事をして逃げだしました。そして翌日は彼女を訪れず、月曜日は会社を休みました。火曜日に、便所で彼女につかまると、病気だったと言い訳をしました。彼女はじっと彼の顔を見て、次の日曜日に一緒に郊外散歩をしないかと誘いました。彼はうっかり、専務にわるいからと洩らしました。とたんに、彼女は彼の肩を捉え、抱きかかえんばかりに顔をすりよせて、おばかさんね、とただ一言、彼の耳許に囁き、怒ったように立ち去りました。だが、彼女は怒ったのでもなさそうで、やはり時々、映画や芝居の切符をくれました。
それからは、彼女の眼付きが変ってきました。揶揄するような甘やかすような、そしてこちらでちょっと極り悪く思うような眼差しで、人中も構わず、彼女はじっと彼を眺めました。彼はその眼差しが気になり、彼女の方へ却って心が惹き寄せられました。彼は嘗て、恋愛の気持ちで女を想ったこともあり、商売女のところへ通ったこともありましたが、そういう過去の事柄も影が薄らいで、彼女の姿と香水の匂いだけが、彼の前に大きく立ち塞がってきました。そして彼は、その秘書主任の独身の三十女を、ひそかに想いあらわに恐れながら、便所で映画や芝居の切符を彼女から貰いました。それはもう屈辱や佗びしさを通りこして、滑稽でさえありました。
そういう会社の、社長の宅の、あの大きな欅に雷が落ちて、欅はまっ二つに裂かれました。それがまざまざと、立川一郎の眼に残っていました。しんしんとした感じで、悲哀に似ていました。
彼はゆっくりと墨をすり、更にゆっくりと辞職願を書きました。一身上の都合に依り考慮する所ありてと、一字一字、墨色を眺めながら書きました。書き終ると、封筒に収めました。それから、一時間ばかりぼんやりして煙草をふかしました。
社内にはもう話し声もせず、十数名の者が、並べ据えられた長卓のあちこちに散らばって、居配りをしたり、印刷物を読んだりしていました。
立川一郎は静かに立ち上って、衝立の向うの一廓になっ
前へ
次へ
全8ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング