に……。」
「坊やを連れてきてごらん。」
「まあー、どうして……。今眠ってるじゃありませんか。」
「いいんですよ、ほんとに、そんなことをしなくたって……。」
「一体どうなすったの。」
「なに、どうでもいいことなんです。」
 武田と敏子とからじっと見られて、佐野は一寸心の置き場に迷った。
「君が変なことを云い出すものだから、実地に証明してやろうと思ったんだが……。」
「君の方だよ、変なことを云い出したのは。」
「変じゃない。ありのままじゃないか。」
「一体何のことなの、それは……。」
 敏子は不思議そうに二人の顔を見比べた。
「赤ん坊の世界が……何だったかな……。」
 佐野にも一寸何だか分らなくなっていた。
「ははは、忘れちゃった。」
 笑いにごまかしたが、まだ何か心の底に残っていた。
 武田は無神経なほど落付払っていた。或は何にも感じなかったのであろう。敏子と、母乳がどうだとか牛乳がどうだとか、そんなことを話し初めた。
 佐野は口を噤んでそこに寝そべった。天井を仰ぎながらやたらに煙草を吹かした。
 やがて武田が帰って行くと、佐野は急にまた腹が立ってきた。そして不思議にも、それが我ながら腑に落ちなかった。顔を渋めて家の中を歩き廻った。
「どうなすったの……何を怒っていらっしゃるの。」
「何にも怒ってなんかいないよ。」
「だって……。」
「自分にも分らないから、怒ってない……ということにはならないかな。」
 独語のように吐きすてて、なお室の中を歩き廻った。

 武田は屡々やって来た。昼間佐野の不在な時が多かった。そして、敏子を相手に別段話をするでもなく、子供の母衣蚊帳の近くに寝そべって、子供の方を覗いたり、ぼんやりしたりして、それから突然思い出したように帰っていった。
 子供が眼を覚して、蚊帳から出されて、両親の膝の上で飛びはねる時なんか、武田は首をひねって眺めながら、しきりに一人で感心していた。
「武田さんて、可笑しいんですよ。うちの坊やにすっかり惚れこんじゃって……。」
「お前に惚れこんだんじゃないのかい。」 
「なら……まだいいけれど……。」
「ばかな。」
 次々に敏子から聞く武田の話に、佐野は一種懸念に似た関心を覚えてきた。
 いろんなことがあった。
 ――赤ん坊は、日によって感じがちがう。林檎のような時もあるし、水蜜桃のような時もあるし、桜ん坊のような時もある。
 ――赤ん坊は、変に股が太って足先が痩せて、腕が痩せて手先が太ってるものだ。
 ――赤ん坊の眼は、澄んではいるが、本当の美しさは少い。唇は醜い。一番美しいところは手足の爪だ。
 ――赤ん坊の無意味な声音は、時によって、ひどく表情的だったり、没表情だったりする。声音に表情が多い時ほど、精神活動が盛んなのだ。
 ――赤ん坊には全く果物みたいな匂いがある。匂いの強い時ほど栄養がいいのだ。
 ――赤ん坊の声音の表情と身体の匂いとが大抵反比例するのは不思議だ。栄養がいいほど精神活動も盛んな筈だが、或いは、栄養がいいと精神的欲求がとまるのかも知れない。
 ――赤ん坊の皮膚は、産毛ばかりで、黒子《ほくろ》も雀斑《そばかす》も全くない。
 佐野には黒子が多かった。敏子には薄い雀斑があった。
「ははは、坊やを僕達と比較して見てるんだね。」
「武田さんにだって、随分雀斑があるじゃありませんか。色が黒いから目立たないけれど……。」
「だが、そんなにくわしく坊やを観察して、どうするんだろう。」
「だから、坊やに惚れこんでるのよ。」
「冗談じゃないよ。」
 実際冗談じゃなかった。家庭内の秘密まですっかり発かれる……というほどではないが、変に自分達の生活まで白日に曝される、とそんな気が佐野にはした。不愉快だった。
 佐野が家に居合せる時でも、武田は書斎の方へは通らないで、子供のいる方へ勝手にはいりこんでいった。それを敏子は親しく迎えていた。
 八畳の室。日射《ひざし》の遠い北の窓近くに、母衣蚊帳が拡げてある。赤ん坊がすやすや眠っている。傍で敏子は針仕事をしている。引きつめた束髪に結っている。それが彼女によく似合って、年齢よりは若く見せる。額の広い細長い顔だから、大きな束髪よりも引きつめたものの方が、若々しくなるのである。鼈甲の櫛が一つ、程よい装飾をなしている。その母と子とから少し離れて、縁側に、武田が寝そべっている。新聞や雑誌を退屈しのぎに拡げてはいるが、別に読むという風でもない。ぼんやり空想に耽ったり、赤ん坊の方をじっと眺めたりしている。長い髪の毛が乱れている。櫛で綺麗にかき上げてもすぐ乱れてしまう、細いしなやかな毛である。その頭髪と妙な対照をなして、痩せた浅黒い顔が固く骨立っている。冷い固い感じの、色艶の悪い皮膚である。眼だけがひどく敏感に、黒ずんだり閃めいたりする。赤ん坊の方を見る眼付が、時々執拗になる。その度に、敏子は変に赤ん坊を庇う気配が見える。と同時に、彼女は得意げである。勝ち矜ったようでさえある。世間苦に染まない呑気な彼女に、そんなことは極めて珍らしい。にも拘らず、殆んど本能的な自然なものに見える。取り繕ったところが少しもない。その得意げな矜りで、彼女は赤ん坊を庇護してるかのようである。武田は一寸、苛ら立つように見える。が瞬間に、ひどく淋しそうな眼付をする。敏子の頬にかすかな微笑の影が漂っている。やがて凡てが消えて、静かな時間が続く。凪ぎ……。凪ぎの底から、赤ん坊がむくむくと動き出す。敏子も武田も、その方に眼を注ぐ。赤ん坊は変な声を立てる。泣くのでも叫ぶのでもない。「おうお目《めめ》がさめたの。」敏子が寄ってゆく。赤ん坊は大きな声を立てる。蚊帳が取りのけられて、白い布団、白い薄い毛布、白い着物、その何もかも真白な中から、赤い顔と赤味がかった髪の毛とが、もがき動いている。「おう可哀そうに、おっぱいの時間でしょう。」ぐらぐらした首筋、きつく握りしめたまん円い手、足をからめた長い着物の裾、その変に頼りない危っかしい全体が、敏子の膝に抱かれる。「御免下さい。」彼女はくるりと向うを向いて、襟を引き開けながら、赤ん坊に乳房を含ませる。甘っぽい乳のかすかな匂い。武田は大きく息をついて、庭の方を見る。樹々の一葉一葉に、輝かしい日が射している。静かな午後……。「そうれ、小父《おじ》ちゃま、ばあー……。」据りの悪い頭をきょとんとさして、にこにこっと笑ったり、うぐんうぐんと饒舌ったり、時々思い出したように、機械人形のように、足をぴょんぴょん蹶り立てる。ほーと云った風に、武田が眼を円くする。眼だけが円くて、そのため額に皺が寄って、可笑しな老人じみた顔付である。敏子は白い歯並で晴れやかに、赤ん坊へ微笑みかけている。武田は抱かしてくれとは云わない。敏子も抱いてくれとは云わない。そこに妙な距てがある。その距ての中で、赤ん坊はぴょんぴょん跳《は》ねている。女中がやってくる。敏子の手から女中の手へと、赤ん坊は往ったり来たりする。武田は赤ん坊の動作に見とれている。「まあー、何を感心していらっしゃるの。」「いや実際……。」面白いと云っていいか素敵だと云っていいか分らないのを、武田は不器用な顔付で示す。敏子と女中とが笑う。「自分も昔は赤ん坊だったかと思うと、不思議な気がしますよ。」「どうして……。」「どうしてって……まあかりに、一度も赤ん坊を見たことのない者があるとすれば、その者は屹度自分が昔赤ん坊だったことなんか、夢にも知らないでしょう。」「夢にくらいみるかも知れませんよ。」「さあ……。僕は一度も赤ん坊の夢を見たことがないんです。」「ほんとに。」「ええ。」敏子は信じられないという顔付をする。武田は淋しく微笑する。それから、ふいに憂欝な仮面みたいになる。赤ん坊が快活に躍り跳ねている。静かだ……。
 佐野は、自分一人がその群から圏外に出てるように感じた。
 ――こいつはどうも少し変梃だ。
 彼はまじまじと敏子の眼を覗きこんだ。
 敏子は聊かたじろぎもしなかった。以前より落付も出来、重みもつき、前よりいくらか美しくなり、肉附も血色もよくなっていた。
「あなたはこの頃、何だか変に軽っぽくなりなすったようよ。どうなすったの。もう一人前のちゃんとしたお父さんじゃありませんか。」
「うむ、そうだそうだ。だから僕も考えてるんだ。」
「何を…。」
「しっかりしようとね。」
「あれですもの、じきに。冗談だか真面目だか、あなたはちっとも区別がないわ。」
「…………」
 彼はいきなり敏子を抱き上げた。彼女は軽かった。それが満足なような不満なような、訳の分らない気持で、彼はふらふらと外に出歩いた。

 佐野は夜更けてから、タクシーで帰ってきた。電車通りの角で降りて、それから三町ばかりのところを歩いた。
 しいんと寝静まった薄暗い横丁だった。夜気が冷く頬に触れた。
 彼はそういう場合のいつもの通り、半夜の相手の女のことなんかはもう遠く忘れかけていた。そして平素よりも遙に、落付いた真面目な気持になっていた。しみじみと人生を考える、そういう心の状態だった。
 ――俺は一体何のために生きてるんだ。
 うそうそとそこいらを嗅ぎ廻ってる犬の側を、親しい気持で通りぬけて、ふと、ひどく淋しくなった。真裸で一人つっ立ってるような、肌寒い感じだった。
 門をはいって、締りをして、家にはいろうとすると彼はびっくりした。遅い折にはいつも引寄せてある玄関の戸が、一枚開け放したままだった。
 更に彼がびっくりしたことには座敷に電燈がついていて、それに黒い布の覆いがされて、ぼうっとした中に、敏子が端然と坐っていた、子供が真赤な顔で眠っていた。
「どうしたんだい。」
 玄関に出迎える筈なのを、敏子は坐ったまま、冷い一瞥で彼を迎えた。そしてそのままの眼付で、子供の方を指し示した。
「え、病気か。」
 水枕の上の頭が、かっとした、底力のある粘っこい熱さだった。それと変に不調和に、不気味なほどに、安らかな静かな息使いだった。そして昏々と眠っていた。小皺の多い唇が乾いていた。
 夕方まで元気だったのが、八時頃から、俄に燃えるように熱くなって、ぐったりしてしまった。三十九度三分の熱だった。医者が来た。神経性の発作的な熱かも知れないが、も少し経過を見なければよく分らない、そう云って、透明な水薬をくれた。一切乳を与えないで、渇く時にはその水薬をやるのだそうだった。――敏子は低い声で、棒切のような話方をした。
「どこに行ってらしたんです。武田さんまでが心配して待ってて下さるのに…。」
「え、武田が…。」
 佐野はどこに行ったとも答えなかった。着物を着換えに立上った。
 茶の間で、武田はぼんやり煙草を吹かしていた。
「君にまで心配をかけちゃって……。」
「なあに……。」
 話のつぎほがなかった。
「ひどいのかしら。」
 武田は敏子と同じようなことを云った。ひどく不機嫌そうだった。
 佐野はまた子供の方へやって行った。
「今日……。」出たらめに友人の名を挙げて、「……に逢ってすっかり話しこんじゃったものだから……。」
「分りそうなものじゃありませんか。」
「そんな……分るものか。」
「武田さんだって、変な気持がしたから来てみたと云っていらしたわ。」
「変な気持……。」
「虫が知らせるってこともあるでしょう。」
「そんなじゃないよ。父親の僕に虫が知らせないんだから、大丈夫だ。」
 子供の額はやはり熱かった。いつ覚めるとも分らない底深い眠りだった。
「氷で冷したら……。」
「余り冷しちゃいけませんって。」
 強固を通りこして冷酷とも云えるほどの敏子の様子だった。一心に子供を見張っていた。佐野は指一本差出す余地がないような気がした。
 いつまでも同じような時間だった。さめた酒の酔が、頭の奥に変にこびりついていた。
 佐野はまた武田の方へやっていった。
 武田の顔は憂欝な仮面になっていた。じっとして動かなかった。
「起きてても仕様がない。寝たらどうだい。泊っていってもいいんだろう。」
「うむ。……だが寝ても仕様がない。」
「もう二時近くだよ。」
「…………」
 露が霜にでもなりそ
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