た憂鬱な仮面みたいになっていた。
「外を少し歩こうか。」
「うん。」
 街路の方が、燈火の度は遙に淡かったけれど、佐野には、ずっと明るいところへ出たような気がした。多くの通行人の頭の上を軽い風が吹き過ぎていた。空高く、星が二つ三つ光っていた。方々で、ラジオの喇叭から、無関心な騒音が流れ出ていた。
 武田は何かに怒ってでもいるかのように、黙って真直に歩いていた。単衣に兵児帯、そして太い支那竹のステッキをついて……。
 ――一定の形を具えた空虚……動き廻ってる空虚……。
 佐野はそんなことを頭の中でくり返した。
 暫くぶりに、レストランの中でふいに現われて、変なことを饒舌って、仮面みたいな憂鬱な顔をして、今黙々として歩いてる武田自身が、形はあるが空虚だったら……。拳固でどやしつけて、その拳固がすっと突きぬけたら……。
 佐野は我ながらばかばかしくなった。とたんに、衝動的に、武田の肩を叩いた。骨立った薄っぺらな固い感じがした。
「え?」
 振向いた武田より佐野の方が、なおびっくりしていた。
「だって……おかしいじゃないか。」
 何がだってだか……ただそんな風に云ってみた。
「何だい、だしぬけに……。」
 好奇な鋭い眼付は、武田の存在を生々とさした。
「なに……一寸……。」
 考えてるうちに佐野は落付いてきた。愉快そうな顔をした若い女が、幾人も通っていた、男も……。
「こんなことがあるよ。結婚して二三年すると、一種の倦怠期と云うか……免に角、夫婦生活に興味がなくなって、淡い幻滅の時期がくる。誰だってそうらしい。そして自由な独身者を羨んだりするようになる。夫婦生活というものが、変に束縛という風にばかり感じられて、細君が亡くなったらと、そんな想像までするようになる。勿論、死なれるのは困るが、そっと消えて無くなったらと、まあそれくらいのところだね。それだって、男性通有のことだとすれば、そう軽蔑も出来ないよ。」
「そりゃあ、細君を持ってる男ばかりが考えることだ。」
「そうかも知れないが……然し、物事は考えようだからね。夫婦生活なんて、二三年で沢山なものかも知れないよ。」
「君もそうなのか。」
「僕……。いや、僕は、妻を愛してるし、妻に消えて無くなって貰いたいとも思ってやしないが……それでも、何と云ったらいいかなあ……籠から脱け出したくなることもあるよ。」
「籠から脱け出すって……。」
「まあ何だね、凡てを忘れて、自由に飛び廻る……とでも云うのかしら。」
「いつでも君は自由に飛び廻ってるじゃないか。」
「それがね……少し。」
 佐野はうそうそと微笑んだ。昼間からのことが、いろんなことが、頭に浮んでいた。
「どうなんだい。」
「まあいいや。……そんなことよりか、今晩、これから改めて飲みに行こうか。たまには気晴しもいいよ。」
「飲むのはいいが……。」
 武田は立止って、佐野の顔をじっと覗き込んできた。
「君はこの頃、遊び初めたんだね。」
「いや、遊ぶというほどじゃないよ。ごくたまに……。」
「女を買うのか。」
「…………」
 快活に微笑んでた佐野は、意外なものにぶつかった。武田とは以前時々、待合にこそ行かなかったが、芸者を呼んで騒いだこともあった。その武田が……。
「そして細君は……。」
 軽い驚きから一転して、佐野は愉快なそして道化た調子になった。
「大丈夫さ。何も知らないよ。また知ったとて嫉妬を起すほどのことでもないからね。僕はすぐに相手の女の顔も名前も忘れちまうんだ。まあ、たまに家庭外の飯を食う、それくらいのことにしか当らない。そして元気になりゃあ、それでいいじゃないか。」
「そんなばかなことが……。」
「実際そうなんだから仕方ないよ。何でもない、一寸した刺戟性の香料みたいなものさ。……香料と云やあ、面白い話があるよ。僕の友人に医学士がいてね、ふと考えついて、病院の実験室で女の鬢附油を使ってみた。何でも硝子と硝子とを密着さして空気の流動を防いで、その硝子器の中で血液中の酸素を調べたりなんかする実験なんだ。その硝子を密着させるのに、普通はワゼリンを使用するんだが、粘着力がわりに弱い。そこで鬢附のことを思いついて、やってみると、なかなか成績がいい。……ところがね、鬢附をねっていると、その匂いがぷんと鼻にくる……。薬品の香のこもった厳粛な実験室だ。その中で鬢附の匂い……そして、色街《いろまち》のことがふっと頭に浮ぶ……。そうなると、その日は駄目だが、一晩遊んで翌日からは、平素に倍して実験に身がはいる……と云うんだ。普通の男にとっては、遊びなんていうものは、それが全部で、そしてそれだけのものさ。」
 話してるうちに、橋のところに出た。油ぎったどろりとした水が、波紋一つ立てないで、街燈の灯を映していた。
「じゃあ僕は、ここで失敬しよう。」
 武田は突然そう云った。憂鬱な仮面になっていた。
「え……一緒に一杯やるんじゃないのか。」
「いや、またこの次にしよう。今日は一寸用があるから……。」
「だって……。」
「そのうちに行くよ。……そう、赤ん坊を見に行こう。」
「…………」
 佐野は呆気にとられた。一人になってもぼんやりそこに佇んでいた。やがて、俄に変梃な気持になった。
 ――さて、どうするかな。行っちまうか。
 街路の灯と明るい商店と見ず識らずの通行人……。その中で、肌寒いほど一人ぽっちの彼だった。

 四五日後の午後だった。
「あなた、今日武田さんがいらっしゃいましたよ。」
 佐野が外から帰ってくると、敏子はさも大事件のように彼へ報告した。
「ほう、武田君が。」
「ええ。随分長く、二時間くらい待っていらしたが、お帰りなさらないので……。」
「何か用かしら。」
「尋ねてみたんですけれど、別に用はないんですって。……こないだ、あなたはお逢いなすったんですってね。」
「あ、そうそう、話すのを忘れていたが……。」
 佐野はぎくりとした。折が折だったので、後になって、二三日前に逢ったという風に、漠然と話すつもりだったが、まだそのままになっていた。
 敏子は一寸不審そうな眼付をしていた。
「二時間も……何を話していったんだい。」
「何ということはなく……口を利くのが面倒だって風に、黙りこんで子供ばかり見ていらしたわ。奥さんがなくなって、やっぱり淋しいんでしょう。」
「そりゃあね……。」
「そうそう、あなたと同じようなことを云ってらしたわ。子供の匂いはどこか果物の匂いに似てるって……。」
「そうれごらん。」
「だけど、子供の寝顔を見てると海を思い出すって、そうあなたが仰言ったことを云うと、ふいと大きな声で笑い出しなすったわ。わたしびっくりしちゃった。」
「ふーむ、分らないんだよ。」
「だって、何があんなに可笑しいんでしょう。」
「何か変なことを思い出したんだろう。……それはそうと、訪ねていってみようかな。」
「今晩か明日か、また来ると云っていらしたわ。」
「今晩か明日……やはり何か用があるのかしら。」
 佐野は一寸気にかかった。
 先日のこと……よしない時に出逢って、よしないことを饒舌っちゃった、というより寧ろ、その全体が不安なことに思い出された。
 敏子も何だか気がかりらしい様子をしていた。
「いや、何でもないことかも知れない。」
「だけど、変だったわ、時々じいっと坊やの方を見ていらっしゃる様子が……。わたし一寸恐くなりそうだった。」
「ははは、ばかな。」
 ――なんだ、そんなことか。
 佐野は笑ってそれきりにした。
 けれど、翌日の晩、武田が訪ねてくると、何故ともなく、二人とも玄関へ出ていった。
「やあー、また来ましたよ。」
 その調子ばかりでなく、様子に、佐野は一寸面喰った。先日の憂鬱な影が薄らいで、どこか無邪気なそして押しの強い、いつもの武田になっていた。
「僕の方から行こうと思ってたところだった。」
「なあに、別に用はないんだから……。一寸子供の顔を見たくなってね……。」
「…………」
 佐野は苦笑した。
「愉快なもんだね。」
「ほう、そんなに気に入ったのかい。」
「ああ、すっかり気に入っちゃった。」
「まあー、何を云っていらっしゃるの。」
「いや本当ですよ。佐野君なんか、家に子供がいるんだから、ふらふら出歩かなくったって、子供の寝顔でも見てる方が、よっぽどいいんだがな。」
「そんなら賛成よ、わたしも。あなた、どう……。」
「つまらないことを……。いやでも毎日見なくちゃならないじゃないか。」
「そう……義務となっちゃあ……駄目かな。」
「あら、義務じゃありませんよ。自然の情愛なんですもの。」
「そうです。義務は悪かった。」
「そんなこと、どうだっていいじゃないか。つまらない……。」
「うん、どうだっていい。」
 冗談のような真剣のような、一寸掴みどころのないものが、武田の調子に現われていた。佐野と敏子とは、何となく武田の顔を見守った。
 敏子が席を外すと、佐野は武田の方へ近々と視線を寄せた。
「あれから……こないだと、気持が変ったようだね。」
「僕が……変りゃしないよ。」
 武田は口を尖らせて見返してきた。
「然し、あの時はひどく君は陰気だったが……。」
「あ、そりゃあ、僕自身だって、時々ひやりとすることがある。」
「冷りとする。」
「何だか変に物が……周囲の世界が、象徴的に神秘に見えてくることがあるんだ。そんな時、亡くなった妻の姿……一種のイメージだね……それが、そこだけぽかっと空虚になって、真空というほどになって、はっきり浮出してくる……。」
「例の……形体ある空虚か。」
「それで僕は、変に堪らない気持で外へ飛び出す。そしてむやみと……彷徨するんだ。犬みたいだね。何かしら探し求めずにはいられなくなる。街路《まち》を通ってる女達の顔を、一々覗き込んでることがある。自分でも知らず識らずにだよ。気がついてみると……。」
 武田は眉根に深い皺を刻んで、老人のような額をしていた。
「それじゃあ、少し遊んでみるといいんだよ。」
「ばかな、そんな真剣な道楽が出来るものか。ただ酒だけはよく飲むが、露骨な肉体は堪らない。」
「露骨な肉体……。」
「そうじゃないのか、君は……。」
「僕の……。そんなんじゃないよ。ただ……。」
 佐野は言葉につまった。そうだともそうでないとも云えない気がした。
「鬢附油の匂いなんて、そうじゃないのか。」
「単なる匂いさ。それに、僕はそう遊んでやしないよ。」
「そうかも知れないがね……。」
「いや本当だ、誤解しちゃ困る。あの晩は、どうも話の調子が変だったものだから……。」
「いや……君に逢ってよかった。……度々やって来て、邪魔じゃないか。」
「度々って、まだ……二度きりで……。」
「うん、これからのことさ。」
「いやちっとも……。気が向いたら、毎日でもいいよ。」
「毎日は来ないがね。……実際、君んところの赤ん坊はいい。僕はあれから、どんな赤ん坊だか一つ見てやれと、そんな気になって……。」
「すると、案外上等だったってわけか。」
 佐野は首を縮こめて苦笑したが、武田は落付払っていた。
「上等だかどうだか、そいつあ分らないが……一体赤ん坊というのは、素敵なものなんだね。」
「どうして……。」
「全く自然で生々としてる。」
「当り前じゃないか。」
「然し、随分いじけた赤ん坊だってある。」
「そりゃあ、病気なんだろう。栄養不良とか、どこか悪いとか、兎に角健全じゃないんだ。健全な赤ん坊なら、どんな赤ん坊だって、自然で生々としてる筈だよ。一番生育の盛んな、伸び上ろう伸び上ろうとしてる時なんだから……。」
「いや僕は精神的に云ってるんだ。」
「精神的にだって、肉体的にだって、赤ん坊にとっちゃ同じじゃないか。つまらない解釈なんかつけるから、変なものになっちまうんだ。」
 云ってるうちに佐野は突然腹が立ってきた。何物とも知れないものが、胸の底で湧き立ってきた。
「別に解釈をつけ加えるってわけじゃないが……。全く分らない世界なんだからね。」
「分るも分らないもない、ありのままの世界だよ。」
 暫く黙ってた後で、佐野は敏子を呼んだ。
「え、なあ
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