うな、しいんとした夜だった。
「君は、どこへ行ってたんだい。」
 突然、電燈の光を受けた武田の顔が、薄黒く冴えてきた。
「どこにって……。」
「不都合だよ、こんな時に……。」
「然し……知らなかったんだから……。」
「知らなくっても、いいことじゃない。」
「そうかなあ。」
 佐野は腑に落ちない顔付をした。悪い……と云えば悪いようだけれど、さてその悪いという実感が少しも胸にこなかった。
「赤ん坊はいい。病気になってもちっとも苦しまないから。あれで、ひどく苦しんだら、君は堪らなくなる筈だ。」
「そんなに悪そうでもないよ。」
「悪くないように見えても、悪いように見えても、同じことじゃないか。病気は病気だよ。僕は、妻が死んでから後で、なぜもっとよく看病してやらなかったかと、それが切なかった。果して妻を愛してたかどうか、それさえも分らなくなってくる……。何もかも生きてるうちのことだ。」
 佐野はぎくりとした。
「え、医者が何か云ったのかい。」
「医者……。」
「危険だとか……何か……。」
「何も聞かないよ。」
「そうだろう。そんなに悪い筈はない。」
「誰でもそう思うものだよ。僕もそう思っていた。愈々いけなくなる前、妻は一寸元気づいていたよ。それが、これなら大丈夫だと思っていると急にいけなくなった。眼に見えてじりじりと、深いところへ落ちこんでゆくようで、どうにも出来やしない。」
「…………」
 佐野は武田の顔を見つめた。
「そりゃあとても堪らない気持だ。」
「…………」
 その時、不思議なことが佐野に起った。或る力強い何とも云えない皮肉な快感から、彼はぼんやり微笑んでしまった。それから始末に困った。
 彼は立上った。
「大丈夫だ。来てみ給い。」
 病室の方へ歩いていった。武田はついて来た。
 電燈の覆いを取ると、ぱっと明るくなった。
「まあー、何をなさるの。」
「なに大丈夫だ。」
 真赤な顔だった。額は汗ばんで熱かった。呼吸は静かだった。心持ち凹んだ眼のあたりを、無意識にしかめていた。
「よし、僕がついててやる。何でもないさ。」
 佐野は枕頭に坐りこんだ。
「いけませんよ。大きな声をなすっちゃ……。」
 敏子は立上って、電燈の覆いをした。
「ほんとに、もう宜しいんですから、お寝みなすって下さい。」
「ええ。」
 武田は中腰にぼんやりしていた。
「みんな寝ておしまいよ。僕がついててやるから。」
 佐野は両腕を組んで構えこんだ。火鉢に湯気が立っていた。黒紗にこされた光が、柔かな暈を室全体に投げていた。子供の呼吸は静かだった。
 佐野は次第に気持が白けていった。何だかばかばかしくなった。
 彼は室の隅に布団を拡げて横になった。そして眠ってしまった。何にも覚えなかった……。
 翌朝、彼は敏子から呼び起された。ちゃんと毛布をかけて寝てるのだった。室の戸は開け放されて、晴れやかな朝日がさしていた。
 子供は大きなきょとんとした眼で、不思議そうに天井を見廻していた。熱が三十七度近くに下っていた。
「昨夜《ゆうべ》眠ったのは、あなたと女中だけですよ。」
「賢い者はよく眠るさ。」
 彼は腹匐いになって、子供の柔かな頬辺をつっ突いてみた。金色に透いて見える細やかな産毛に被われた皮膚が、無心にひくひくと動いた。
 蒼ざめて雀斑の浮いて見える敏子の顔が、彼には珍らしかった。それよりもなお、縁側に蹲って涙ぐんでる武田の姿が可笑しかった。肩をまるめて、泣いてるような恰好だった。

 それから間もなく、武田は婚約した。
「いい赤ん坊を拵えてやるんだ。」
 ちっともそれらしくない陰欝な顔で武田は云った。
「ははは、僕んとこと競争してみ給い。」
 佐野は愉快になった。そしてその話を敏子にした。敏子は笑わなかった。
「やっぱり、わたしをいくらか、想っていらしたんじゃないかしら。」
「ばかな、自惚れもいい加減にしないか。」
 佐野は何かしら、生活の自信というようなものを持ち初めていた。愉快そうに笑った。



底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「新潮」
   1926(大正15)年9月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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