うな、しいんとした夜だった。
「君は、どこへ行ってたんだい。」
 突然、電燈の光を受けた武田の顔が、薄黒く冴えてきた。
「どこにって……。」
「不都合だよ、こんな時に……。」
「然し……知らなかったんだから……。」
「知らなくっても、いいことじゃない。」
「そうかなあ。」
 佐野は腑に落ちない顔付をした。悪い……と云えば悪いようだけれど、さてその悪いという実感が少しも胸にこなかった。
「赤ん坊はいい。病気になってもちっとも苦しまないから。あれで、ひどく苦しんだら、君は堪らなくなる筈だ。」
「そんなに悪そうでもないよ。」
「悪くないように見えても、悪いように見えても、同じことじゃないか。病気は病気だよ。僕は、妻が死んでから後で、なぜもっとよく看病してやらなかったかと、それが切なかった。果して妻を愛してたかどうか、それさえも分らなくなってくる……。何もかも生きてるうちのことだ。」
 佐野はぎくりとした。
「え、医者が何か云ったのかい。」
「医者……。」
「危険だとか……何か……。」
「何も聞かないよ。」
「そうだろう。そんなに悪い筈はない。」
「誰でもそう思うものだよ。僕もそう思っていた。
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