武田は黒ずんだ眼を瞬いて、陰鬱な表情をした。その色艶の悪い痩せた顔が、電燈のだだ白い光を受けて、仮面のように見えた。
「凡ては時の問題だ。余りくよくよするものじゃないよ。」
「……ない筈なんだ。普通に考えればおかしいよ。」仮面の顔が急に真実になってきた。「然し、君にだってこういう経験はあるだろう。室の中の道具を、他の室に移すとする……例えば、箪笥だとか戸棚だとか、長くいつも同じ場所にあった道具を、俄に取りのける。すると、何気なくその室にはいって、びっくりする。今迄箪笥のあった場所だけが、全く空虚になっている。空虚は、他の何物でも満されない。今迄あった箪笥をもって来なくっちゃあ、到底満されるものじゃない。……分るだろう。」
「うむ……。」
「それと同じことなんだ。妻が死んでから、僕は、生活が不自由だとか、いろんな思い出の品があるとか、そんなことにはもう平気でいられる。けれど、妻の姿だけのものが……物質的な立体的な……妻の肉体そっくりなものが、僕の周囲で空虚になっているのだ。……空虚と一口に云うが、空虚だって一つの形を取ることがある。妻の姿通りの空虚が、家の中にそこらに動き廻ってる。どんなものを持ってきてもふさげられない……それそっくりのもの、妻の肉体をもってこなくちゃふさげられない、そういった空虚が、家の中にふわりと浮んで動き廻ってるんだ。」
「…………」佐野は答えにつまった。
「僕は、昔の幽霊なんてものは、結局そういう空虚を指すんだと思う。幽霊を何か実体があるように考えるのは間違ってる。それはただ、一定の形を具えた空虚じゃないかね。生きてた当の人間の肉体そのものでしかふさげられない空虚だ。ただ、眼に見えなくて、感じられるだけのものだが……然し、もし空虚そのものが眼に見えるようになったら……。」
「そりゃあ……困る……。」
「困るとか困らないとかいう問題じゃないよ。全く思いもよらないことなんだ。」
「誰だってそんな……。だが、考えてみれば、それも愛情のせいかも知れないよ。」
「愛情……そういった気持とは全く別なものだ。僕は何だか不気味な恐ろしい気持さえしてるんだから。」
佐野も聞いてるうちに何だか変な気持になりかかっていた。それは単に気のせいだ、と云ってしまいたかったが、武田の調子や顔付を正面にしては、そうも云いきれないものがあった。
暫く黙り込むと、武田の顔はまた憂鬱な仮面みたいになっていた。
「外を少し歩こうか。」
「うん。」
街路の方が、燈火の度は遙に淡かったけれど、佐野には、ずっと明るいところへ出たような気がした。多くの通行人の頭の上を軽い風が吹き過ぎていた。空高く、星が二つ三つ光っていた。方々で、ラジオの喇叭から、無関心な騒音が流れ出ていた。
武田は何かに怒ってでもいるかのように、黙って真直に歩いていた。単衣に兵児帯、そして太い支那竹のステッキをついて……。
――一定の形を具えた空虚……動き廻ってる空虚……。
佐野はそんなことを頭の中でくり返した。
暫くぶりに、レストランの中でふいに現われて、変なことを饒舌って、仮面みたいな憂鬱な顔をして、今黙々として歩いてる武田自身が、形はあるが空虚だったら……。拳固でどやしつけて、その拳固がすっと突きぬけたら……。
佐野は我ながらばかばかしくなった。とたんに、衝動的に、武田の肩を叩いた。骨立った薄っぺらな固い感じがした。
「え?」
振向いた武田より佐野の方が、なおびっくりしていた。
「だって……おかしいじゃないか。」
何がだってだか……ただそんな風に云ってみた。
「何だい、だしぬけに……。」
好奇な鋭い眼付は、武田の存在を生々とさした。
「なに……一寸……。」
考えてるうちに佐野は落付いてきた。愉快そうな顔をした若い女が、幾人も通っていた、男も……。
「こんなことがあるよ。結婚して二三年すると、一種の倦怠期と云うか……免に角、夫婦生活に興味がなくなって、淡い幻滅の時期がくる。誰だってそうらしい。そして自由な独身者を羨んだりするようになる。夫婦生活というものが、変に束縛という風にばかり感じられて、細君が亡くなったらと、そんな想像までするようになる。勿論、死なれるのは困るが、そっと消えて無くなったらと、まあそれくらいのところだね。それだって、男性通有のことだとすれば、そう軽蔑も出来ないよ。」
「そりゃあ、細君を持ってる男ばかりが考えることだ。」
「そうかも知れないが……然し、物事は考えようだからね。夫婦生活なんて、二三年で沢山なものかも知れないよ。」
「君もそうなのか。」
「僕……。いや、僕は、妻を愛してるし、妻に消えて無くなって貰いたいとも思ってやしないが……それでも、何と云ったらいいかなあ……籠から脱け出したくなることもあるよ。」
「籠から脱け出すって……。
前へ
次へ
全9ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング