裸木
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)街路《まち》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23]
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 佐野陽吉には、月に一度か二度、彼の所謂「快活の発作」なるものが起った。
 初めはただ、もやもやっとした、煙のような、薄濁りのした気分……。それが次第に濃くどんよりと、身内に淀んできて、二つの異った作用を起した。一つは、頭脳がひどく鈍ってきた。一種の毒気みたいなものが、頭の中に立罩めて、こみ入ったことは考えられなくなり、細かなことは感じられなくなり、あらゆる陰影や色合が失せて、変に露骨になるのだった。丁度白昼の薄曇りに似ていた。それからも一つは、肉体が急に精気づいてきた。血量がふえて、過剰になって、睥肉の歎に堪えないという風に、何かしら激しい労働でもしてみたくなるのだった。そしてその別々な二つの作用が、或る時期にぴたりと一つのものにまとまる。と、彼はにやにやと不気味な薄ら笑いを洩した……。そういう状態を、彼は自ら、人間性の獣化と考えるのであった。
 人間性の獣化ということは、必ずしも不名誉なことでも不愉快なことでもない。否それは却って、佐野陽吉にとっては、愉快な生々とした時間だった。世間体とか気兼とか矜持とか、そういった事柄から一歩外に踏み出したものだった。そして彼は、媚びを売る女達のなまめかしい姿態と香りを眼前に浮べて、想像の中であれこれと選択をした。
 ――今日出かけて行こう。
 ぴょんと踊りはねるような気持で、彼は敏子の方へやっていった。彼女の側には、生れて百五十日ほどになる赤ん坊が、母衣蚊帳の中にすやすや眠っていた。彼はその蚊帳の中へ、腹ん匍いになって頭だけをつき込んで、幼児の柔かい頬辺を、指先でちょいとつついてみた。
「あら、いけませんよ。今眠ったばかりじゃありませんか。」
「はははは、眠ってるな。」
 その大きな笑い声になお喫驚して、眉根に小皺を寄せて、子供の方を覗き込んでる敏子の顔を、彼ははね起きながら眺めやった。
 敏子の眉根が、やがてゆるんで、子供の寝顔の反射のように、無心の笑みが頬に上ってきた。と一緒に、彼もにこにこと微笑んだ。
「子供の寝顔っていいもんだなあ、」と咄嗟に、出たらめに、
「まるで海みたいなものだ。」
「え、海……。」
「海が見たくなっちゃった。」
「じゃあ見にいらっしゃいよ。」
「そうだな、今から行って来ようか。だが……。」
「なあに……。」
「まだ暑いし、……。」
「だから、海は涼しくていいんじゃありませんか。」
「そうかしら……。一緒に行こうか。」
「わたし?」睨むような甘えた眼付だった。「行けないことが分ってるものだから……。」
「なぜだい。」
「坊やをどうするの。」
「ああ、子供か。」
「嫌な人ね、白ばっくれて……。行っていらっしゃいよ。」
「うむ……だが、赤ん坊の顔を見てるのもいいようだし……。」
「まあー……。」
 赤ん坊は余り好かないと云って、抱きかかえることも少い彼だった。その平素の不満がちらと敏子の眼に閃めくのを、彼はすぐに取上げてみた。
「いや、僕は……赤ん坊の寝顔はひどく好きだよ。何だかこう、人間ばなれした清浄無垢って感じだからね。赤ん坊というものは、始終眠ってると実にいいんだけれど……。」
「それじゃあ、人形も同じじゃありませんか。」
「そうだ、生きた人形……そんなものが生れると素敵だがなあ。」
「また。……だからあなたは駄目よ。」
「へえー、駄目かなあ。」
「何を感心していらっしゃるの。……行っていらっしゃいよ。つまらないことばかり云って、また坊やが眼を覚すじゃありませんか。」
「三界に身を置くところなしか。……行ってくるかな。……どこだろう、一番近くて一番よく海が見えるところは……。」
 品川か……大森か……羽田か……そんなことを独語しながら、彼はなおゆっくり構えこんで髯を剃り初めた。
 ――海なんかどうでもいいんだ。俺は……いや、そういう風なお前が可愛いいんだ。お前が可愛いいからこそ……。
 そんな理屈はない筈だけれど、兎に角彼は、そういう場合の敏子が可愛いかったし、可愛いければ可愛いいほど快活な気分になって、華やかな巷の方へいそいそと出歩いてゆくことが、ぴったり胸におさまった。
「夕飯は……まあどっかで済しちまおう。……少し帰りは遅くなるかも知れないよ。」
「遅いのはいつものことじゃありませんか。」
 何の疑念もなく微笑んでる敏子の眼付に、彼も微笑で応じた。
「あ、全くだ。夜遅く、もう電車もなくなった街路《まち》を、ぶらりぶらり歩いてくるのは、実にいい気持のものだよ。お前に
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