」
「まあ何だね、凡てを忘れて、自由に飛び廻る……とでも云うのかしら。」
「いつでも君は自由に飛び廻ってるじゃないか。」
「それがね……少し。」
佐野はうそうそと微笑んだ。昼間からのことが、いろんなことが、頭に浮んでいた。
「どうなんだい。」
「まあいいや。……そんなことよりか、今晩、これから改めて飲みに行こうか。たまには気晴しもいいよ。」
「飲むのはいいが……。」
武田は立止って、佐野の顔をじっと覗き込んできた。
「君はこの頃、遊び初めたんだね。」
「いや、遊ぶというほどじゃないよ。ごくたまに……。」
「女を買うのか。」
「…………」
快活に微笑んでた佐野は、意外なものにぶつかった。武田とは以前時々、待合にこそ行かなかったが、芸者を呼んで騒いだこともあった。その武田が……。
「そして細君は……。」
軽い驚きから一転して、佐野は愉快なそして道化た調子になった。
「大丈夫さ。何も知らないよ。また知ったとて嫉妬を起すほどのことでもないからね。僕はすぐに相手の女の顔も名前も忘れちまうんだ。まあ、たまに家庭外の飯を食う、それくらいのことにしか当らない。そして元気になりゃあ、それでいいじゃないか。」
「そんなばかなことが……。」
「実際そうなんだから仕方ないよ。何でもない、一寸した刺戟性の香料みたいなものさ。……香料と云やあ、面白い話があるよ。僕の友人に医学士がいてね、ふと考えついて、病院の実験室で女の鬢附油を使ってみた。何でも硝子と硝子とを密着さして空気の流動を防いで、その硝子器の中で血液中の酸素を調べたりなんかする実験なんだ。その硝子を密着させるのに、普通はワゼリンを使用するんだが、粘着力がわりに弱い。そこで鬢附のことを思いついて、やってみると、なかなか成績がいい。……ところがね、鬢附をねっていると、その匂いがぷんと鼻にくる……。薬品の香のこもった厳粛な実験室だ。その中で鬢附の匂い……そして、色街《いろまち》のことがふっと頭に浮ぶ……。そうなると、その日は駄目だが、一晩遊んで翌日からは、平素に倍して実験に身がはいる……と云うんだ。普通の男にとっては、遊びなんていうものは、それが全部で、そしてそれだけのものさ。」
話してるうちに、橋のところに出た。油ぎったどろりとした水が、波紋一つ立てないで、街燈の灯を映していた。
「じゃあ僕は、ここで失敬しよう。」
武田は突然そう云った。憂鬱な仮面になっていた。
「え……一緒に一杯やるんじゃないのか。」
「いや、またこの次にしよう。今日は一寸用があるから……。」
「だって……。」
「そのうちに行くよ。……そう、赤ん坊を見に行こう。」
「…………」
佐野は呆気にとられた。一人になってもぼんやりそこに佇んでいた。やがて、俄に変梃な気持になった。
――さて、どうするかな。行っちまうか。
街路の灯と明るい商店と見ず識らずの通行人……。その中で、肌寒いほど一人ぽっちの彼だった。
四五日後の午後だった。
「あなた、今日武田さんがいらっしゃいましたよ。」
佐野が外から帰ってくると、敏子はさも大事件のように彼へ報告した。
「ほう、武田君が。」
「ええ。随分長く、二時間くらい待っていらしたが、お帰りなさらないので……。」
「何か用かしら。」
「尋ねてみたんですけれど、別に用はないんですって。……こないだ、あなたはお逢いなすったんですってね。」
「あ、そうそう、話すのを忘れていたが……。」
佐野はぎくりとした。折が折だったので、後になって、二三日前に逢ったという風に、漠然と話すつもりだったが、まだそのままになっていた。
敏子は一寸不審そうな眼付をしていた。
「二時間も……何を話していったんだい。」
「何ということはなく……口を利くのが面倒だって風に、黙りこんで子供ばかり見ていらしたわ。奥さんがなくなって、やっぱり淋しいんでしょう。」
「そりゃあね……。」
「そうそう、あなたと同じようなことを云ってらしたわ。子供の匂いはどこか果物の匂いに似てるって……。」
「そうれごらん。」
「だけど、子供の寝顔を見てると海を思い出すって、そうあなたが仰言ったことを云うと、ふいと大きな声で笑い出しなすったわ。わたしびっくりしちゃった。」
「ふーむ、分らないんだよ。」
「だって、何があんなに可笑しいんでしょう。」
「何か変なことを思い出したんだろう。……それはそうと、訪ねていってみようかな。」
「今晩か明日か、また来ると云っていらしたわ。」
「今晩か明日……やはり何か用があるのかしら。」
佐野は一寸気にかかった。
先日のこと……よしない時に出逢って、よしないことを饒舌っちゃった、というより寧ろ、その全体が不安なことに思い出された。
敏子も何だか気がかりらしい様子をしていた。
「いや、何でもないことかも知れ
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