付が、時々執拗になる。その度に、敏子は変に赤ん坊を庇う気配が見える。と同時に、彼女は得意げである。勝ち矜ったようでさえある。世間苦に染まない呑気な彼女に、そんなことは極めて珍らしい。にも拘らず、殆んど本能的な自然なものに見える。取り繕ったところが少しもない。その得意げな矜りで、彼女は赤ん坊を庇護してるかのようである。武田は一寸、苛ら立つように見える。が瞬間に、ひどく淋しそうな眼付をする。敏子の頬にかすかな微笑の影が漂っている。やがて凡てが消えて、静かな時間が続く。凪ぎ……。凪ぎの底から、赤ん坊がむくむくと動き出す。敏子も武田も、その方に眼を注ぐ。赤ん坊は変な声を立てる。泣くのでも叫ぶのでもない。「おうお目《めめ》がさめたの。」敏子が寄ってゆく。赤ん坊は大きな声を立てる。蚊帳が取りのけられて、白い布団、白い薄い毛布、白い着物、その何もかも真白な中から、赤い顔と赤味がかった髪の毛とが、もがき動いている。「おう可哀そうに、おっぱいの時間でしょう。」ぐらぐらした首筋、きつく握りしめたまん円い手、足をからめた長い着物の裾、その変に頼りない危っかしい全体が、敏子の膝に抱かれる。「御免下さい。」彼女はくるりと向うを向いて、襟を引き開けながら、赤ん坊に乳房を含ませる。甘っぽい乳のかすかな匂い。武田は大きく息をついて、庭の方を見る。樹々の一葉一葉に、輝かしい日が射している。静かな午後……。「そうれ、小父《おじ》ちゃま、ばあー……。」据りの悪い頭をきょとんとさして、にこにこっと笑ったり、うぐんうぐんと饒舌ったり、時々思い出したように、機械人形のように、足をぴょんぴょん蹶り立てる。ほーと云った風に、武田が眼を円くする。眼だけが円くて、そのため額に皺が寄って、可笑しな老人じみた顔付である。敏子は白い歯並で晴れやかに、赤ん坊へ微笑みかけている。武田は抱かしてくれとは云わない。敏子も抱いてくれとは云わない。そこに妙な距てがある。その距ての中で、赤ん坊はぴょんぴょん跳《は》ねている。女中がやってくる。敏子の手から女中の手へと、赤ん坊は往ったり来たりする。武田は赤ん坊の動作に見とれている。「まあー、何を感心していらっしゃるの。」「いや実際……。」面白いと云っていいか素敵だと云っていいか分らないのを、武田は不器用な顔付で示す。敏子と女中とが笑う。「自分も昔は赤ん坊だったかと思うと、不思議な気がしますよ。」「どうして……。」「どうしてって……まあかりに、一度も赤ん坊を見たことのない者があるとすれば、その者は屹度自分が昔赤ん坊だったことなんか、夢にも知らないでしょう。」「夢にくらいみるかも知れませんよ。」「さあ……。僕は一度も赤ん坊の夢を見たことがないんです。」「ほんとに。」「ええ。」敏子は信じられないという顔付をする。武田は淋しく微笑する。それから、ふいに憂欝な仮面みたいになる。赤ん坊が快活に躍り跳ねている。静かだ……。
 佐野は、自分一人がその群から圏外に出てるように感じた。
 ――こいつはどうも少し変梃だ。
 彼はまじまじと敏子の眼を覗きこんだ。
 敏子は聊かたじろぎもしなかった。以前より落付も出来、重みもつき、前よりいくらか美しくなり、肉附も血色もよくなっていた。
「あなたはこの頃、何だか変に軽っぽくなりなすったようよ。どうなすったの。もう一人前のちゃんとしたお父さんじゃありませんか。」
「うむ、そうだそうだ。だから僕も考えてるんだ。」
「何を…。」
「しっかりしようとね。」
「あれですもの、じきに。冗談だか真面目だか、あなたはちっとも区別がないわ。」
「…………」
 彼はいきなり敏子を抱き上げた。彼女は軽かった。それが満足なような不満なような、訳の分らない気持で、彼はふらふらと外に出歩いた。

 佐野は夜更けてから、タクシーで帰ってきた。電車通りの角で降りて、それから三町ばかりのところを歩いた。
 しいんと寝静まった薄暗い横丁だった。夜気が冷く頬に触れた。
 彼はそういう場合のいつもの通り、半夜の相手の女のことなんかはもう遠く忘れかけていた。そして平素よりも遙に、落付いた真面目な気持になっていた。しみじみと人生を考える、そういう心の状態だった。
 ――俺は一体何のために生きてるんだ。
 うそうそとそこいらを嗅ぎ廻ってる犬の側を、親しい気持で通りぬけて、ふと、ひどく淋しくなった。真裸で一人つっ立ってるような、肌寒い感じだった。
 門をはいって、締りをして、家にはいろうとすると彼はびっくりした。遅い折にはいつも引寄せてある玄関の戸が、一枚開け放したままだった。
 更に彼がびっくりしたことには座敷に電燈がついていて、それに黒い布の覆いがされて、ぼうっとした中に、敏子が端然と坐っていた、子供が真赤な顔で眠っていた。
「どうしたんだい。」
 玄関に出迎える筈なのを
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