は分らないかなあ……。」
「…………」
 分ったとも分らないともつかない、うそうそとした彼女の顔を、その姿を、彼は抱きしめて揺ぶってやりたくなった。それを我慢して、彼女の手を取りながら、踵を浮かし、爪先ですっすっと、ダンスの真似をやってのけた。
「いやよ、何をなさるの。」
「ははは、一寸ね……。」
「柄にもないわ。」
 ばかばかしいといったような、それでも嬉しそうな顔を、彼女はしていた。
「ほんとだ、僕には散歩が一番いい。……じゃあ行ってくるよ。」
 そして彼は家を飛び出した。
 ――家庭平和だ。俺は妻を愛してる。
 ――うまくやったな。
 そういう二つの漠然とした思いが、その日一日の遊蕩の予想を、更に愉快なものとなした。

 夕暮の街路――電車が走る、自動車が走る、自転車が走る。通行人の足が早い……。何もかもが行先を急いでいた。
 その中で一人、佐野陽吉はぶらりぶらりと歩いていた。
 ――まだ少し早過ぎるな。
 然しその場合、早過ぎるということは少しも苦にはならなかった。逸楽の予想を楽しむということも、プログラムの中の一つだった。
 街路にも店頭にも、一杯灯がともっていた。慌しい中に都会は悠然と、夜の化粧を初めていた。
 ――俺の方は腹ごしらえだ。なるべく簡単にそして滋養分の多いものを……。
 高い白い天井、行儀よく並んだ真白な卓子、水打った鉢の樹木、その中に彼は腰を下した。定食を避けて、気に入った料理を四五皿、それにビール……。
 粗らな客……ボーイ達……それがみな赤の他人の、南瓜を並べたのと同じ頭ばかりだった。がその中で、向うの隅っこの卓から、俯向いてる一つの横顔が、次第にまざまざと浮出してきて……武田啓次……はっきり分った。
 ビールのコップを前にして、石のようにじっとしていた。
 ――気がつかないのかな。
 佐野は立っていった。
「おい」と肩を叩く気勢で、「どうしたい。」
 友人を迎える彼の笑顔に向って武田は夢からさめたような顔を挙げた。
「やあー。」
「暫くぶりだね。」
「うむ。」
「どうしてるんだい、其後……。まあ、あっちの卓子に来ないか。」
「そう。」
 気の無さそうなのを、佐野は構わずにボーイを呼んだ。そして、卓子を挾んで向き合ってみると、一寸、極りがつかなかった。
 佐野の家に赤ん坊が生れたのと、武田が細君を――正式の結婚ではなかったが同棲して二
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