年余になる細君を――亡くしたのとが、殆んど同じ頃だった。その両方の混雑にまぎれて、親しく往き来してた二人ではあるがいつしか疎遠になっていた。
 武田の顔は、目立って色艶が悪く、頬の肉が落ちていた。
「飯は?」
「もう済んだ。」
「もう……。何なら、今初めたばかりだから、一緒にやろうか。」
「いやほんとに済んだよ。」
 だが、佐野には腑に落ちなかった。どこをどうという理由もないが、武田はまだ食事をしていないに違いないという感じが、しきりにするのだった。
「ほんとかい。」
「ああほんとだ。」
 武田は頑として冷い顔をしていた。
 佐野は食事を続け、武田はビールを飲んだ。
「行こう行こうと思ってて、つい行きそびれちゃってね……。」
「いやお互様だよ。……君んとこは皆丈夫かい。」
「ああ丈夫だ。」
「二人とも……。」
「二人とも、……うむ、丈夫にしてるよ。」
 敏子の顔が、ちらと佐野の頭に映った。と同時に、擽ったいような変な気持になった。
「君も……もう落付いたかい。」
「落付いたと云やあ、落付きすぎたくらいだが……。」
「そりゃあいい。」そして佐野はじっと武田の顔を眺めた。「細君に死なれるってことは、実際経験してみなけりゃあ分らない、とそう僕は考えて、其後行きそびれちゃったが……。」
「いや、その方が僕は有難かった。なまじい変なことを云って慰められるよりも、そっと触れないでおかれた方が、どれほどいいか分らない。」
「ふむ、そんなものかなあ。」
「どうして……。」
「どうしてってことはないが……一体どんな気持だい。随分困ったろう。」
「その当座は全く困っちゃった。だが……子供がないのでまあよかったが……何もかも済んでしまって、落付いてしまった後が、どうもいけない。」
「というのは……。」
「何かしら残ってるんでね。」
「そりゃあ残ってるだろうよ。」
「それがね、変なんだ。妻の品物がそこらにあるとか、僕の身の廻りの世話が行届かなくなるとか、そんなことなら当り前の話だけれど……。」
「まだ何かあるのかい。」
「ある。……だが、もうそんな話は止そうよ。」
「話したくないことなら、仕方ないが……。まあいいや、そのうち何もかもよくなるよ。実際人に死なれるってことは、嫌なことだ。僕にも母が死んだ時の覚えがある。然し、いつのまにか、遠い過去のことになってしまうものだよ」
「…………」
 
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